観 心 寺
(かんしんじ)
観心寺金堂

Contents
1.所在地
2.宗派
3.草創・開基
4.その他
5.現在の境内
6.古寺巡訪MENU

 1.所在地
大阪府河内長野市寺元475 0721-62-2133
堺市堺区と奈良県五條市を結んでいる国道130号線があるが、この国道はほぼ河内長野市までは旧高野街道をほぼ踏襲している。 その高野街道とは南海高野線の河内長野駅手前で分かれ、15分ほど走れば観心寺に到着する。
 2.宗派
高野山真言宗  本尊 木造如意輪観音坐像(国宝)
 3.草創・開基
 観心寺は、天長4年(827)弘法大師空海の指示により、その弟子実恵と実恵の弟子真紹が実質的には創建した寺院である。
 ところで、寺伝では「大宝元年(701) 役小角(えんのおづね)によって開かれ、寺号は雲心寺。弘仁6年(815)、空海が本尊如意輪観音座像を刻み寺号を観心寺と改称された」とあるが、山岳信仰の祖ともいえる役行者が、この地域に何らかの宗教施設を建立したということは充分にあり得ることである。
※実恵
・俗称は、佐伯氏。空海とは伯父、甥の関係。
・延暦5年(786)生まれ。奈良に出て、大安寺泰基に法相を学び、空海、帰国後に空海の弟子となる。
・弘仁元年(810)両部灌頂を受ける。
・承和3年(836)実恵大徳、東寺長者となる。
・空海が承和2年入寂後、真言宗の最高実力者として東寺を経営した。
・晩年は、観心寺に退き、法禅寺を建立した。
・承和14年(847)11月入寂。62歳。

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 4.その他
(1)楠本正成ゆかりの寺
境内には、楠木正成の菩提寺である中院があり、楠木正成縁の寺院としてよく知られている。
楠木正成は、延元元年(1336)神戸湊川で討死するが、足利尊氏の命によりその首が送られたという。それが首塚として今も祀られている。
(2)南朝方の行在所となった観心寺
また、南北朝時代の後村上天皇が、延文4年(1359)天野山金剛寺から当山に移り、塔頭総持寺を行在所(あんざいしょ)とした。10ヶ月間だったという。
その後、室町時代には足利氏、戦国時代には織田信長、江戸時代には徳川家から圧迫を受け、最盛期には五十を超える塔頭があったが、現在では二坊のみとなっている。
(3)幕末の激動期の天誅組と観心寺
 ところで、当山は尊皇攘夷の嵐吹き荒れる幕末の一場面に登場する。文久3年(1863)8月17日に、若干19歳の公家中山忠光を大将とする天誅組39名が当山に参ったというのがそれである。天誅組総裁三名の内の一人である松本奎堂の大和戦争日記に、以下の通り記述されている。
「暁八ッ時過、三日市駅本陣へ着 夜明迄休息五ッ時頃出陣観心寺ヘ昼前着ス」

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 5.現在の境内
山門
観心寺山門
  金堂
観心寺本堂
この山門を入ると右手に中院がある。中院は、楠木正成の菩提寺で、正成の8〜15歳までの学問所ともなった。   国宝。1334年頃が後醍醐天皇の勅により金堂外陣造営。大阪府下最古の建造物と知られる。昭和59年に大修理された。
     
鎮守堂(阿梨帝母天堂(かりていぼてん)
観心寺阿梨帝母天堂
建掛堂
観心寺建掛堂
重要文化財。康永3年(1344)焼失し、1549年後村上天皇が再興された。   楠木正成が外陣造営のころ、三重塔の建立にも着手したが、1336年神戸湊川で討死したため未完成のままとなったという。
     
楠木正成首塚
楠木正成首塚
  後村上天皇桧尾陵
後村上天皇桧尾陵
楠木正成は、1336年神戸湊川で討死し、足利尊氏の命により当山に送られ、ここに祀られた。   後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)は、1368年住吉大社で崩御された(41歳)。
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 6.古寺巡訪MENU
 
<更新履歴>2010/7作成 2012/9 補記改訂 2016/02改訂 2017/7補記改訂 2020/12補記改訂
観心寺