平城太上天皇の変
(薬子の変)



平城太上天皇の変(薬子の変)
桓武天皇系図  平城太上天皇の変(薬子の変) は、桓武天皇の死後の平安時代初期に起こった平城上皇と嵯峨天皇の抗争事件です。
 
 平城上皇と嵯峨天皇の関係は、桓武天皇の皇子であり、兄・平城は上皇、弟・嵯峨は天皇でありました。
 抗争の原因は、いったんは弟・嵯峨天皇へ譲位した平城上皇が復権を画策したことにありました。そして、その抗争の具体的な経緯を分かり易くするため時系列の表にすると次の通りです。
 抗争の結果は、嵯峨天皇側の勝利に終わり、平城上皇は剃髪して出家し、薬子は、服毒自害します。一方、皇太子であった平城上皇の皇子・高岳親王は廃太子され、代わって大伴親王が立太子します。
 
 しかしこの抗争は、その後の朝廷における勢力地図を大きく変化させるものとなります。
 藤原四家の内、それまで勢力を維持してきた武家は、薬子と仲成の死により没落し、唯一、冬嗣が率いる北家のみとなったのです。そしてこの抗争の副産物ともいえる蔵人所と巧みな外戚の地位確保によって、北家は朝廷における絶大な権力をその後着々と掌握してゆくこととなるのです。

 なお、髙岳親王はその後数奇な人生を歩まれます。
 廃太子された後、空海から真言密教を学び、平城京に不退寺を建立するなど、高僧として名を馳せます。しかし、861年密教の奥義を求めて唐に渡り、さらに865年にはインドへ求法の旅に出立されましたが、インドには到達できず、マレーで客死されました。
西暦 和暦 出来事
806 延暦25年  桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位
809 大同4年4月 平城天皇、発病。その病を「早良親王や伊予親王の祟り」と恐れ、その禍を避けるために譲位
810   大同4年12月 平城上皇、旧都・平城京へ移る(平城京北東の地に萱葺きの御所(萱の御所)を造営する)
嵯峨天皇の観察使廃止案等によって、二所朝廷といわれる対立が起こる
大同5年3月 嵯峨天皇,,、蔵人所を新たに設置
大同5年6月 嵯峨天皇,,、観察使を廃止し参議を復活(これにより平城上皇との関係悪化決定的となる)
大同5年9月6日  平城上皇、平城京遷都の詔勅を出す
嵯峨天皇、この詔に従い坂上田村麻呂・藤原冬嗣・紀田上らを造宮使に任命し、平城京へ派遣する(実際は上皇側牽制が目的)
大同5年9月10日 嵯峨天皇、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁、詔によって薬子の官位を剥奪
大同5年9月11日 平城上皇、自ら薬子とともに輿にのって挙兵を目的に東国に向かう。
しかし、大和国添上郡田村まで達したとき嵯峨天皇側兵士に阻まれて断念
大同5年9月12日 平城上皇、平城京に戻り剃髮して出家。薬子は服毒自害。
大同5年9月13日 嵯峨天皇、高岳親王(平城上皇第三皇子)を廃太子し、大伴親王を立太子させる
大同5年9月19日 阿保親王(平城上皇第一皇子)、太宰府へ太宰権帥として左遷される
823 弘仁14年4月 嵯峨天皇、大伴皇太子(淳和天皇)へ譲位する
824 天長元年7月 平城上皇没(51才)、阿保親王、許され平安京へ還る
826 天長3年 阿保親王、子息の行平・業平の両名の臣籍降下を願い出て許され在原朝臣姓を賜与される
847 承和14年 「仁明天皇の勅により御殿を寺とする」(不退寺寺伝)

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<更新履歴>2015/2作成  2018/2補記改訂

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