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【 観用少女プランツ・ドールりん 4 】




 慣れない事をしたせいで、別の意味でますます殺生丸は屋敷に居辛かった。いつもと違う使用人たちの柔らかな視線が、妙にこそばゆく落ち着かない気分にさせる。あの後、簡単な食事と着替えを用意させると、すぐにオフィスへと戻った。戻りながらも必要であれば何かあの店で買う事もあるかと、そんな仕事以外の事を考えていた。
 
( ああ、そう言えばあの格好でエナメルの靴は合わんな。どうせ通り道だ、何か注文しておくか )

 運転していた車を道端に寄せ駐車すると、路地の奥にあるその店へと足を運んだ。店内に人影は少なく、殺生丸が店の扉を開いた時には、居た様に見えた客の姿もなかった。

「いらっしゃいませ、殺生丸様。先日はお買い上げありがとうございます。本日はどのような品をお探しでしょう?」

 母子揃っての上得意と心得たのか、店主の愛想は殊更に良い。

「ああ、靴を。あの服にエナメルの靴ではな」
「承知いたしました。では同じ絹糸をより大きな番手で紡ぎ、織った生地で作ったこの靴はどうでしょう? 靴底にはレザーソールをダブルで使用してます。通気性が良く、足が疲れません」

 そう言いながら店主が殺生丸に見せたのは、工芸品と見間違うほど精巧な細工を施した美しい中華靴だった。薄緑の生地に小花が丹念な刺繍で描かれ、その花芯にはキラキラ光るビーズが縫い止められている。

「……見事なものだな。子どもの靴にしては」
「ええ、この靴は清王朝の時代、後宮に上がった女性たちの足を飾る為に作られたものですから」
「この大きさで大人用なのか?」
「忌まわしい前世紀の因習ですよ。纏足と申しまして、足の小さな女性ほど当時の男性たちから持てはやされたのです」

 詳しくは語らないがその因習の持つ淫靡さを感じ、殺生丸は微かに眉を潜めた。

「プランツもあまり大きく育ててはなりませんから、丁度宜しいのでは?」
「そうだな。合わなくなれば、新しいものを買うだけの話。これを屋敷に届けておいてくれ」

 店主の意味有り気な表情に、どこか気に障るものを感じつつ殺生丸は店を出て行った。完全に殺生丸の姿が店内から見えなくなったのを確認して、店主は奥の部屋に声をかける。

「もうお帰りになりましたよ」

 店主の言葉に、奥の部屋から出てきたのは名家の令嬢でありながら、斜で粋な性格から劇場を幾つも経営しているあの若い女性だった。

「お知り合いで?」
「ああ、まぁね。根に持ちゃしないが、振られた相手とこんな所で顔を合わすのはちょっと……。でも、驚きだね! まさかあたしの捨て台詞通り、人形を相手にしてるのかい!? あの冷血漢は」
「いえ、当店で【観用少女】プランツ・ドールをお求めになったのは、殺生丸様の母上様です。母上様がご不在なので、替わりに世話をしていらっしゃるようですよ」
「ふ〜ん、あいつがねぇ……。枯れなきゃいいけどね、そのプランツ」
「笑ってはいるみたいですよ、お屋敷で」
「少しは変わったって事か。まぁ人情味がある方が、人生楽しく生きてゆけるってもんだし」

 その口調は蓮っ葉だが、どこか温かみを感じる。あんな形で結果として、振られた事になる相手でも恨まないのがこの女経営者の良い所だろう。

「人生楽しく、ええ、まさしくその通りで。ところで次の舞台でお使いになる衣装は、こちらでよろしかったのでしょうか?」
「ああ、そうそれ。新しい物も悪くはないんだけどね。役者をその気にさせるのは、本当の本物を身に着けさせる方がいい。古典らしく古めかしい由緒ある衣装の方が、気も入るってもんさ」
「はい。毎度お引き立てありがとうございます。他にも何かご希望の品がありましたら、承らせていただきますが」
「そうだね、舞台栄えのする大振りの耳飾りか何かあったら欲しいねぇ。二百年くらい前の金の円盤に真珠を嵌め込んだ六本房の奴でさ。こんど初舞台を踏ませる若い娘に使わせたいんだ」
「判りました。入荷次第連絡させてもらいます」
「ここのは本当に品が良いから安心だよ」

 女経営者も満足げに、その店を後にする。店を出てから、殺生丸の去った方向を見ながらぽつりと呟いた。

「……人情味が出たら、また惚れ直すかもしれないけどねぇ。だけどあたしは、あいつのあの冷たさに惹かれたのかもしれないね」

 プランツの世話をする殺生丸。想像すれば面白くはあるが、実際目にすると案外見たくない光景かもしれない。ある意味、それこそ百年の恋も冷めるような。女経営者は少し肩をすくめ、自分の劇場の方へと歩みだした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
 

 殺生丸があの店からりんの靴を屋敷に届けさせて、数日が経っていた。

「殺生丸様! ぜひ、お屋敷にお戻り下さい!!」

 屋敷の事を任せている邪見が、取り乱した様子でオフィスに駆け込んできた。

「どうした!? 本国から何か急な知らせでもっっ!」
「い、いえ、そうではないのですが……。こんな時期に、こんな事で殺生丸様のお手を煩わせるのもどうかと思っていたのですが、ワシ等ではもうどうにもできそうにありません」

 おろおろとうろたえてるばかりで、状況を話そうとしない邪見に苛立つものを感じる。

「なにがどうした! 端的に言えっっ!!」
「りん、りんが…っっ! りんが、枯れてしまいます!!」

 ぴくっと、殺生丸の体が震えた。
 なぜ? 先日屋敷に戻った時には、あんなに元気ではなかったか?

「どう言う事だ、邪見!?」
「りんがミルクも砂糖菓子も口にしないのです。それだけではなく…、このままりんが枯れてしまうような事があれば、どれほどご母堂様が悲しむ事か」

 りんが枯れる? この前、あの店の店主に聞いた話が脳裏に浮かぶ。

( 枯れます。それも、ほんの一瞬で)

 それから ――――

( プランツを育てるのには、必ずしも特製のミルクや砂糖菓子や高級なドレスなどなくとも良い。それを補うだけの飼い主の愛情さえあれば )

 あれば? あれば枯れないと言うのなら、それが足りないと言うのか? りんには!?

( 母上でないと駄目なのか? 屋敷の使用人や邪見の気持ちでは足りないのか……、それとも、そこまで愛情に欲深いモノなのか? 【観用少女】プランツ・ドールは!? )

 笑っていたから、自分を見て笑いかけてくれたから、どこかで大丈夫だと思っていた。とにかくこの眼で状況を確認しない事には、どうしようもないと殺生丸は判断した。邪見を伴い、急ぎ屋敷に戻る。屋敷に戻ると、使用人たちが地階の物置部屋の前に集まっていた。殺生丸の後ろにいた邪見が、メイド頭に様子を尋ねる。

「どうじゃ? あれから何か口にしたか?」
「いいえ、どんなにこちらから声をかけても、中からは物音一つしません。中から鍵までかけて、こちらからは入ることも出来ませんし」

 困ったような顔で取り巻いている使用人を避けて、殺生丸が前に出る。

「誰か裏庭から鉈を持って来い。この扉を打ち壊せ」

 殺生丸の命令に、庭番の老爺が慌てて庭に走ってゆく。その足音が聞こえなくなる前に、ぎぃと木製の物置部屋の扉の開く音がした。
 皆が、やはりこの屋敷の主人の言う事なら【観用少女】プランツ・ドールのりんでも聞き分けるのだという空気が流れる。開いた扉の中にいたりんを見て、一瞬殺生丸は言葉を失った。

 りんは、笑っていた。
 今まで見た、りんのどの笑顔よりももっと『笑顔』で。

 しかし、その姿が異様だった。ご母堂が与えたドレスでもなく、殺生丸が買ってやった動きやすいチャイナドレスでもなく、まるでどこかの浮浪児のような薄汚れた布切れを纏っているだけ。薄桜色の生き生きとした頬も白く乾いたような色になり、艶のあるしっとりとした黒髪はぱさついた海草のような蓬髪に。
 ただ、その黒くて大きな瞳だけは輝きを失う事無くむしろ爛々と光っていた。

「……どういうつもりだ、りん。何が気に入らぬ? お前の笑顔の代償としては、まだまだ不服と言う事か?」

 りんは凍りついたような笑顔のままで、大きく首を横に振る。

「とにかくミルクだけでも飲め! それが嫌なら砂糖菓子の一欠けらでも」

 りんはますます笑顔のままで、首を横に振り続ける。

「りん!!」

 言う事を聞かないりんに焦れて、その手を取って引き出そうとする。殺生丸の手がりんの腕を取ろうとしたその僅かな隙をついて、りんが突風のように周りの人間の間を抜けて庭へ逃げ出した。もともと緩慢な動きしかしないプランツには珍しく、野性味たっぷりに育てられたと言うのが良く判る。するすると庭で一番高い木の梢近くまで登り、今にも折れそうな枝に腰掛けてこちらを笑顔で見下ろしている。

「どう言う事だ? 邪見。りんのあの様子は」
「それが、ワシにも良くは判らんのです。先日、殺生丸様がお戻りになった後から、なぜか今まで着ていたものを脱ぎ捨て、ご母堂様が用意された寝具や道具一切を使わなくなり、ミルクや砂糖菓子を食べなくなってしまって……」
「……プランツは、飲み食いせずにどのくらい持つのだ?」
「……判りません。ときどき庭の噴水の水を飲んではいるようなのですが、ワシ等がどうにかして飲み食いさせようとすると、ああして逃げ出してしまうのです」

 なにか異常事態だと、殺生丸も感じる。あの店主の話を考えると、飲み食いしないのは枯れる兆候の一つ。確かに荒れてきているのは一目で判る。しかし、元気はあるようだし、沈んだ風でもない。むしろこちらが馬鹿にされているような気すらするのだ、あの笑顔を向けられて。

( ……原因が何か判らないが、もしかして既に心が病んでいるのか? 心が先に枯れかけているとか……!? )

 訳の判らないぞっとしたものが、殺生丸の背中を駆け抜けた。これは一刻も早く、りんをあの店に連れて行かねばならないのではないだろうか?

「りん、降りて来い! そのままではお前は枯れてしまうかも知れぬ!! 手当てせねば、手遅れになるぞ!」

 りんが上った大木の下で、そう声を上げてりんに呼びかける。意味が判ったのか判らないのか、りんは笑顔のままで首を横に振る。そのままでは降りてきそうにないりんに痺れを切らし、殺生丸は使用人達に言いつけた。

「お前達はとにかくりんを木から下ろしておけ!」

 こんな【観用少女】プランツ・ドール一体に振り回されてと怒りも湧くが、それよりも自分の対応した事のないこの事態に、らしくもなく戸惑っている自分が腹立たしかった。
 たかが人形の一つや二つ、壊れてしまっても替わりはある。関わるのな、捨てておけ。この騒ぎの始末は、他の者につけさせろ。あの母が悲しもうと、知った事ではない。

 常の殺生丸ならば、そう答えを出しているはずだった。

 そう出来ない自分が、どこか滑稽でさえある。
 そうだ! 全てはりんの、あの笑顔のせいだ!!

 急ぎ居間に戻るとそこにある電話機のダイヤルを苛立ち紛れに回し、殺生丸はあの店に電話をしていた。


 いつもよりけたたましく感じられた電話を取ると骨董店の店主は、電話口でドスの利いた声で恫喝された。

「はい…、えっ? 当店が不良品を売りつけたと? いえ、そんな筈は……。はぁ、判りました。すぐそちらにお伺いいたします」

 チンと電話を切り、小さく溜息をつく。

「どうしたんだい? クレームでも?」
「ええ、殺生丸様のところにいるプランツの様子がおかしいらしくて、それでひどくご立腹でしてね。数日前、私が靴を届けに行った時ちらりと拝見した所では、そんな様子はなかったんですけどねぇ」

 注文した耳飾りを取りに来た女経営者が、さもありなんと言う表情を浮かべた。

「……あいつは生身の女の機嫌だけでなく、プランツの機嫌まで損ねたんじゃないのかい。損ねたと言うより、傷つけた。『愛情』が一番の糧なんだろ? プランツって生き物はさ」
「まぁ、おそらくは。引き取ってくる事になるかも知れませんねぇ」

 店の戸締りをし、出かける準備を始めた店主に女経営者が言葉をかける。

「ねぇ、あたしも一緒に行ってもいいかい? あいつがどんな顔をしてそのプランツの世話をしているか見てやりたいんだ」
「それは構いませんが、あまり面白い見世物にはならないと思いますよ」
「あたしには十分面白い見世物さ。今日は近くに車を止めているから、店の前に回してくるよ」

 シャネルのスーツを愛用するだけに、車の運転も出来る。骨董品を愛好し、古典芸能を自分の劇場の目玉にもする。新しい物と古い物の良さが判るのは、実業家としても武器だろう。

「これからの女性は、貴女のように自分で自分の道を切開いてゆくような方が増えてくるんでしょうね」
「増えてくるかもしれないけど、そこは向き不向きって奴もあるだろうさ。自分らしく生きてゆければ、どっちでも良いと思うよ。あたしは」

 車を取りに向かう颯爽とした女経営者の後姿に、不穏な社会情勢の中にも心強いものを感じた。二人が殺生丸の屋敷に着いてみると、言い付けられていたのか門前に一人のメイドが人待ち顔で立っていた。

「お待ちしておりました。こちらです、どうぞ!」

 待っていたメイドに急かされ、庭へと案内された。庭での状況は、店主が電話を受けた時とそう変わりはない。殺生丸にりんを木から下ろせと言いつけられたが、下からいくら声をかけても、下りてくる気配はなし。誰かが木に上って下ろさない事にはこの膠着状態は動きそうにもない。木の下で、苛立ちを隠そうともしない殺生丸が木の上のりんを睨みつけていた。

「殺生丸様、遅くなりまして……」

 店主がそう声をかけながら、りんの様子を伺う。店主の後について来た女経営者の姿に、少し眉を潜めたが、今はそれを無視することにした。

「これはどう言う事だ。【観用少女】プランツ・ドールはワガママな生き物だとは聞いた。自分のワガママを通す為には、あんな馬鹿な真似もするものなのか!?」
「馬鹿な真似…?」
「飲みも食いもせずに、与えた服さえ脱いでまるで浮浪児のような成りをして、へらへらと笑っている。もっと良いものを寄越せと言う事か? あれは自分の笑顔に、どれだけの値をつけているんだ!!」

 激しい口調でそう言う殺生丸の隣で邪見が、言葉を補足する。

「……と言いましても、庭の噴水の水は時折飲んでいるようですが」
「さすがは、野の花のプランツ。実に逞しいですね。しかし、あまりにもそのような状態が続くのは、よろしくないです。枯れないにしても変質してしまい、取り返しの付かない事になってしまいます」

 男達が話している間、女経営者は木の上のりんの様子を見ていた。薄汚く荒れた姿は、いつも華麗で美しくある事が当たり前のプランツとしては異様に見える。
 りんの荒れた様子を見て以前見たことのある、あるプランツの姿を思い出す。金持ちの道楽として、自分の周りでもプランツを育てている者はいる。この恐慌のあおりで破産した者の所にいたプランツは、飼い主の心の荒みをそのまま受けて、世話を受けるどころか暴力さえ向けられ、その男が夜逃げした屋敷に一人残されていた。

 債権者の一人として自分が屋敷に出向いた時、そのプランツは虚ろな目でやせ細り、青白い顔色で身動きも出来なくなっていた。思わず、大丈夫かと声をかけたら弱々しく微笑みかけて、次の瞬間には枯れて散ってしまった。それを目の当たりに見ていただけに ――――

 改めてりんの姿を見ると、そんな儚げな様子とは違い薄汚れ荒れた風でも、その黒い瞳には強い光が浮かんでいる。浮かべた笑顔はどこか悲しくも、きっと引き締められたようにも見える。すぐにも枯れる事はないかもしれないが、だからと言ってワガママだけで逆らっているようにも思えない。

( ……違う。このプランツは、何か伝えたい事があってこんな真似をしているんだ )

 女経営者は考えた。プランツの今の笑顔はどういう意味を持っているのか? 殺生丸はそれを自分への挑発、あるいは交渉手段のように受け取っている。本当にそんな事の為に、あの子は笑っているのか?
 その時、女経営者の頭に先ほど殺生丸が口にした言葉が大きく響いた。


 ―――― あれは自分の笑顔に、どれだけの値をつけて 


( そうか、これだ! あの冷血漢というか、朴念仁はっっ!! )

 殺生丸の女の扱い方どころか、人としての心遣いの出来なさ、いや不器用さをまじまじと実感する。

「……あんたらしくもないねぇ、たかが人形一体の事にそんなに熱くなってさ」
「お前……」
「自分の思い通りにならない人形なんて、もういらないだろう? 良ければあたしに譲ってもらえないかな。あの人形を木の上から下ろすにしても、ここには年寄りと女しかいないし、あたしの所なら軽業師が何人もいるから朝飯前の話だよ」
「………………………」

 沈黙に、不快さを込めて女経営者を睨む。

「あの子がどうしてあんな真似をしてるか、あんたがどうしてそんなに苛ついているか、ひねくれた心のあんたじゃ判りゃしない」
「何が言いたい」

 その声音には、明らかに怒りが篭っている。女経営者は間を持たせるように、自分のバッグから銀色のシガレットケースを取り出した。それから一本細い煙草を抜くと、火をつけ一息ふぅと煙を吐き出した。

「……あんたの感覚じゃ、役者や歌手は金を儲けるために演じたり歌ったりしていると思っているんだろ?」
「それ以外の何がある」

 関係ない話をなぜすると、不快さに不機嫌さがさら増す。はぁぁ、と大きく女経営者は頭を振った。

「それは二の次。一番大事なのは、本人が演じたり歌ったりする事が好きだって事。そして、それを見て喜んでくれる人がいるから、もっと上手くなりたいって思うのが人の心ってもんだ」
「それとあれがあんな真似をするのと、どんな関係がある」

 女経営者が指に挟んだ煙草をシガレットケースに押し付け火を消し、足元に落とした。

「あんたはあの子の笑顔を値踏みした。あの子は自分の笑顔は『売り物じゃない』って抗議してるんだよ!!」
「なに……」
「だから、あんたが笑顔の代価として与えようとした飲み物も食べ物も着る服も、身の回りの物一切を拒んで、その上でああしてあんたが気付くまで、泣きたい気持ちで笑い続けているんだ」
「なぜ、そんな真似を……」
「さぁ、あたしはあの子じゃないからね。ただ、駆け引き無しで、あんたを喜ばせたいと思ったんだろうよ。今までのあんたを知ってると、ちょっと考えるのも難しいんだけどあの子、あんたにも笑って欲しいんじゃないのかい?」

 確かに想像すると、背中にうそ寒いものが走りそうだ。

「馬鹿な事を……」
「ふん、どっちが馬鹿だか…。言葉を持たない人形じゃあるまし、自分の気持ちさえちゃんと言葉に出来ない奴に馬鹿呼ばわりされたんじゃ、あの子が可哀想だ。愛情を糧に育つプランツだからこそ、そういう気持ちが育っていたっておかしくないさ」
「そういう気持ち――」
「あー、まぁ、あんたを喜ばせたいって言うか、好きって気持ちみたいなもんかね」

 振られた相手に、プランツとはいえ好意を抱いている者の気持ちを仲介する巡りあわせの可笑しさを、女経営者は感じていた。

「母上様も、お寂しいお気持ちを癒して欲しくて【観用少女】プランツ・ドールを、お求めにいらしゃいました。その時、口にされたのは殺生丸様の事でしたよ。りんをお求めになったのは、りんが心を閉ざしたプランツだったからでございます」

 店主の言葉に、あの母の去り際の言葉が蘇る。

( あれは、殺生丸。私に取ってのお前だ )

 母の想いがりんの心を開いた。だからりんは……
 母からりんへ、そしてりんから自分へと ――――

「で、どうする? 殺生丸。こんなに活きの良いプランツなんて滅多な事じゃ手に入らないからね。あんたが要らないなら、あたしがあんたやあんたのご母堂以上に大事にして可愛がってやるよ」

 自分の思惑とは違う方向に進み始めたと感じ取ったのか、りんの顔から笑顔が消え困惑気な色が浮かぶ。

 りんがここにいるのは、ご母堂様が迎えに来ると仰ったから。
 そして、その時にご母堂様と殺生丸様が仲良く出来たら、りんはとっても嬉しい。
 殺生丸様がご母堂様を嫌いなのは、ご母堂様が本当は殺生丸様の事を好きだって愛しているって事を知らないから。だから、りんが替わりに殺生様を好きになる。ご母堂様がりんにしてくれたように。

 そう、ご母堂様のために ―――――
 でも……

 嫌われたかもしれない、殺生丸様に。
 わかって欲しかっただけなのに……

 初めてりんの瞳に涙が溢れてきた。
 それは木の下に立っていた殺生丸の手にぽつりと、一粒の雫となって落ちる。
 泣く事などほとんどない、【観用少女】プランツ・ドールの涙 ――――

「悪いけど、ちょっと屋敷の電話を借りるよ。うちの軽業師を呼びたいからさ」

 それは、殺生丸の背中を押す一言。上着をその場に脱ぎ捨て、ネクタイを外し、靴を脱ぐ。一番下の枝に手を伸ばすと、軽く跳躍し、後はそれこそ軽業師まがいの身のこなしで梢近くのりんの側まで登っていった。

 たかが人形と捨て置けなかった本当の理由が、胸の中に確かな言葉として存在している。
 あの訳の判らない面映さや気まずさが、なにに所以しているものかを。

 ゆっくりと、りんとの間合いを詰めてゆく。ここに逃げ込んだ時のりんの様子とはすっかり変わり、怯えたように身を縮こまらせ不安げな表情で殺生丸を見ている。りんの肩に手をかけ、片腕の中に抱きとる。ハンガーストライキをしたために荒れてしまったりんの顔を見ながら、静かに語る。

「……私が何かしても、それは私の勝手だ。お前が笑おうが泣こうが関係ない。だけど、お前の本当の笑顔は見ていたい」」

 情感や温かさなど感じさせない拙い言葉で、自分とりんとの間に駆け引きなどはないと、ようやくそれだけを伝える。そして、いままで一度も触れようとも抱き締めようともしなかったりんの身体を、大事な壊れ物を扱うような細心さで抱き寄せた。
 ご母堂がりんに感じた温かさを今殺生丸は感じ、それと同時にすれ違っていただけの母の思いを感じ取る。

 伝わる思い ――――

 りんの泣き顔が、笑顔に塗り替えられてゆく。
 二人が降りてくる前に、店主の足元にぽとんと、何かが落ちてきた。それを拾い上げ、太陽に透かす。

「私たちには聞こえませんでしたが、よほど嬉しい事を言われたようですね。ほら、綺麗なものでしょう? 『天国の涙』ですよ」

 その薄緑色に太陽の煌きを閉じ込めたような宝石を、女経営者の手に渡す。

「え、これっ…。『天国の涙』って言ったら、ダイヤよりも高価な値で取引される幻の宝石じゃないか。確か、極上のプランツを極上の環境で愛情込めて育て上げた時、極稀に涙を流す事がある。それが結晶化したのが『天国の涙』だって聞いたよ」
「りんは極上かどうか比べる事が出来ない【観用少女】プランツ・ドールですし、極上の環境かと言えばあんな状況ですから……。本来なら絶対に採れることのないものだと思いますよ。これはりんからのお礼だと思って、貰ってゆきましょう」

 店主と女経営者は、屋敷の者がまだ庭の高い木の上にいる主と【観用少女】プランツ・ドールを見上げている隙に、とっとと屋敷を後にした。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 無事りんを抱かかえて殺生丸が木の下の下りてきた時、そこにはもうあの店主も女経営者の姿もなかった。屋敷の者以外にこんな取り乱した姿を見られるのは、あまりにも不本意に思っていただけに、その気使いだけはありがたいと思えた。
 下で待っていたメイドにりんを預け、入浴と食事の世話を言いつける。そして自分も疲労感と脱力感を感じながら、居間に戻った。

「お疲れ様でした、殺生丸様。木の上でりんに何を仰ったのです? とても素直に言う事を聞いているようですが」

 お茶を運んできながら、邪見がほっとした口調でそう話しかける。

「……特別なことではない」
「そうですか。それでもりんにとっては殺生丸様は特別なのでしょうなぁ。それにしても、大変な事にならずに済んで本当に良かった」

 まったくと、殺生丸もここしばらくの自分らしくない行動に苦笑いさえ浮かびそうになる。そして、ふと心に浮かぶものがある。

( 計算づくでは物事は動かん、か。たまにはそんな計算を度外視する事も必要かも知れんな )

 すっと、心が軽くなる。閉塞感を感じていた事業の方向性が見えたような気がした。やがて入浴を済ませ、メイドに綺麗に身だしなみを整えられたりんが居間に入ってきた。りんが着ていたのは、殺生丸が贈った女の子風のチャイナドレスとあの纏足の靴。りんの黒い髪黒い瞳、こじんまりとした東洋人めいた顔立ちとそれらはとても良く似合っていて、仏教画に描かれる天女を子どもにしたよう。

「りん」

 殺生丸が声をかけると、りんはがばっと物凄い勢いで頭を下げた。ばさっとまだ濡れたままの黒髪が音を立ててりんの顔を被う。言葉を持たないりんの、精一杯のごめんなさいだった。

「判った。もう、あんな馬鹿な事は二度とするな」

 そうさせたのは自分だと胸の中で自戒しながら、表面はいつもどおりに振舞う。これからは、こんな関係が続いてゆくのだろう。

( 自分以外の何かと、誰かと暮らすと言うのは、こんな感覚なのか )

 くすぐったいような妙な気持ちだが、それも悪くない。

「りんの食事は済んだのか?」

 りんを連れてきたメイドに尋ねる。

「いいえ、まだです。りんは身支度が済むと、どうしても先にこちらにお伺いしたいと言う風でしたので……」
「そうか。では、ここで取らせたらいい。私も何か軽いものを頼む」
「はい。承知いたしました」

 邪見とメイドは居間に殺生丸とりんを残して、それぞれの食事の支度にかかる。居間のテーブルを挟んで、殺生丸とりん。りんはソファの上にちょこんと借りてきた猫のようなおしとやかさで座っている。さっきまでの浮浪児のような山猿のような雰囲気は、もうどこにもない。その済ましたような顔とのギャップに、殺生丸は思わず小さな笑いを漏らした。

「?」
「そうしていると天女のようだが、お前の本性は野生の猿か猫のようだな」

 今度はりんの表情が、ぷぅうと膨れる。ころころと目まぐるしく変わるりんの表情は、見ていて飽きない。

「……その服は今のお前には、少し大きかったな。プランツは大きく育ててはならんらしいが、窮屈なのはお前の気性に合わんだろう。お前はお前の思うように振舞え」

 ぱぁっと花が咲いたような、りんの笑顔。
 食事の支度が整い、ワゴンで運ばれてくる。殺生丸の前にはスープとサラダ、ローストサンド。りんの前には温められたミルクとお替り用のミルクポットとガラスの器に入れられた砂糖菓子。

「ほれ、りん。お前は、もう何日もまともに飲み食いしてなかったから、たっぷり用意したぞ。早く、もとのりんに戻れ」

 邪見がまるで孫かなにかのように、りんに声をかける。りんは嬉しそうに頷きながら、手にしたミルクカップを一気に空けた。空になったカップを邪見に差し出しミルクのお変わりを笑顔と共にねだる。邪見がほくほくした顔でカップにミルクを注いでやった。
 結局りんはミルクを三杯もお替りし、今度はお腹をぱんぱんに膨れさせた。ミルクを注いでやった邪見を見て、つい自分もそんな気持ちになった殺生丸がりんに声をかける。

「りん、欲しいか」

 殺生丸の指先には、あの虹色をした砂糖菓子が摘まれている。こくこくと首を縦に振り、瞳を輝かせるりんの表情に小さな満足感を感じながら、りんの口元にその砂糖菓子を含ませた。この砂糖菓子はりんの大好物なのだろう。蕩けるような幸せそうな笑顔がそれを物語っていた。

「りんは、その砂糖菓子が大好きじゃもんな。そうじゃろ、りん?」

 眼を細めてその様子を見ていた邪険が、横からそう言葉をかける。りんはさらにこくこくこくと頷いた。


 その日から、殺生丸の行動パターンが少し変った。オフィスに泊り込みがちだで仕事優先だった生活態度を、仕事と日常とを切り替えるようになった。朝、りんの笑顔でオフィスに送り出され、夜は屋敷に帰る。そんな当たり前の生活に。
 事業の方も方向転換をした。取り扱い事業はそのままで、こんな時だからこそ正規の取引価格で商品を仕入れ、卸先には殆ど仕入れ値でそれも翌々月支払いでの掛売りを始めた。今までの事業展開で、数年分何もしなくとも暮らせるだけの資産はある。それなら多少の損失は承知の上で、滞りがちな物品の流れを流れやすくしてやる方が他への波及効果が高いだろうと、積極的に事業を動かし始めた。

 殺生丸が正規の価格で取引をしてくれるので、商品はあっても換金化出来なかった卸元に現金が流れ、そのお蔭で倒産せずにすんだり社員に給料が払えるようになった。卸し先への掛売りでの取引を始めた結果、小口ではあるが取引先が増えた。返品可としたのも、取引をしやすくなった要因だろう。
 この不況の波がどこまで続くか、殺生丸にも見通しは定かではなかったが、それでも今の自分に出来るだけの良策であると思える方法を取るだけだと腹を括っていた。万が一、債権の回収が出来なくて事業が立ち行かなくなったとしたら潔く撤退し、また時期を見て新たに事業を設立させるだけだと達観していた。

「まったく、らしくもないな。まぁ、最低限、屋敷の使用人の退職金とりんのミルク代だけでも残ればよいか」

 父である闘牙を越えると気負っていたものがすとんと肩から落ち、今は本当に事業を動かす事が楽しいと思えた。この不況の波をどう乗り越えてやろうかと、スリルに似た高揚感を感じてさえいた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 休日は屋敷で過ごす事が日課となった。食事も今ではりんと共に取る事が日常化している。食後のコーヒーを飲んでいる殺生丸の顔をじっとりんが好奇心に満ちた顔で見つめている。くんくんとコーヒーの香りを嗅いでもいるようだ。

「コーヒーに興味があるのか?」

 りんがこくんと頷く。毎朝殺生丸が飲んでいるので、興味を覚えたらしい。

「飲んでみるか?」

 嬉しそうにりんが頷く。殺生丸は自分の飲みかけのコーヒーカップをりんに渡した。コーヒーの良い香りを嗅いで、ほわぁとりんが笑う。しかし、一口そのコーヒーを瞬間にぶっーっと噴出してしまった。その様子を見て、殺生丸が笑う。

「ブラックコーヒーでは、やはり苦かったか。それでは、これならどうだ?」

 りんが飲んでいたミルクカップに少しだけそのコーヒーを注いでやる。おそるおそる口にしたりんが、にこっと笑った。それから、りんが興味を示し、子どもにでも食べさせられそうな物は、少しずつ食べさせるようにした。りんは好奇心の塊で、なんにでも興味を示し、新しい物を見つけ喜び、日々の成長が手に取るように判った。最近気付いた変化は、口を動かし何か声を出そうとしている風に思える場面を良く見かけるようになった。見られていることに気付くとりんは、顔を少し赤くしてぱっと逃げ出してしまうのだが。
 植物的、受動的な性格が多い【観用少女】プランツ・ドールとしては、りんは本当に変り種だった。

 りんと暮らし始めて一年程が過ぎた。りんはすくすくと成長し、今では十歳前後の少女のような外見にまで育っていた。物覚えが良く、話すことは出来ないが、それを覗けば同年代の少女の中に紛れても見分けが付かないくらいにまで馴染んできていた。
 りんが他の【観用少女】プランツ・ドールと異なり、『野の花』のプランツである事も関係しているだろう。素朴でどこにでも咲く花、環境によく適応し逞しく真っ直ぐな気性。美しすぎるプランツ達と違う事が、りんをより人間の少女に近く見せていた。

 ある日、好奇心旺盛なりんを喜ばせようと街に連れ出してみようかと思いついた。とは言え、人ごみの中は何が起きるか判らない。屋敷外の人間に触れさせるのも、いきなりではりんも戸惑うだろう。無難な所で観劇などではどうだろうと考えた。

「りん、芝居見物だ」
「?」

 メイドに言いつけ、りんの外出の支度をさせる。自分も支度をしているところに、邪見が通りがかり、かかってきた電話の内容を伝えた。

「殺生丸様、あの店の店主がりんのミルク他衣装などのお届けは何時頃うかがえば宣かと電話がかかっておりますが」
「ああ、そうか。前回よりももう少しサイズの大きめの服を何枚か持って、夕方にでも出向けと伝えろ」
「はい、承知いたしました」

 留守を邪見達に任せ、殺生丸は自分の運転する車で繁華街へと乗りつけた。りんのような子どもでも楽しめる物をと物色していたところ、丁度京劇の演目で「西遊記」を興行している劇場がある。その劇場のドアを開き、ホールに入ってみると ――――

「おや? 珍しいね、殺生丸。あんたが劇場に足を運ぶなんてさ、しかも子ども同伴で」

 そう、そこはあの女経営者の劇場。あの後、妙な借りを作ったようであまり顔を合わせたくない相手となっていた。女経営者の方は、以前殺生丸に振られた事はしっかり吹っ切れ、二人の成り行きを見守る保護者のような気持ちでいる。

「……りんに見せようと思ってな」

 殺生丸の後ろに控えていたりんが、ぴょこんとお辞儀をする。

「へぇぇ、これがあの時のプランツかい? 随分と大きく綺麗になったもんだね。あの時のあんたは、まるで山猿そのものだったからねぇ」

 あははと明るく屈託なく笑う。その言葉に少し顔を赤くしながら、はにかむようにりんも笑った。

「……あの子のおかげかねぇ。あんた、変わったよ。あたしの耳に入るあんたの噂も、良いものが増えたよ」
「ふん」
「これから先が見物だね、あんた達は」

 意味深な言葉を残し、女経営者は支配人室へと入って行った。りんが派手なアクションを繰り広げる舞台に釘付けの間、殺生丸は女経営者の言った、『これから』を考えていた。
 そう、これから。
 いや、何も変わる事はない。今までどおりりんは、ここにいれば良い。
 瞳を輝かせ舞台に魅入るりんを見つめ、殺生丸は自分の胸にそう呟いた。

 そんな殺生丸とりんが劇場から戻ると、驚くような事が待っていた。

 「母上…!」

 一年前、夫である闘牙を助ける為に、急ぎ本国に帰国した母がそこにいた。

「いつ、本国を出られたのか? 連絡の一つもなかったようだが」
「ああ、本国でお前の噂を聞いて、居ても立ってもおれなくなってな。イギリス空軍の極東飛行隊に便乗させてもらい、香港まで飛んできたのだ。その後直ぐ、鉄道で移動してきたから連絡する暇もなかった」
「私の噂?」
「そう、お前の噂じゃ。西に闘牙があれば、東に殺生丸がある。これで救われる会社がどれほどあろうかと言う噂じゃ。冷淡な機械の様なと言われていたお前が、他人に情をかける心持ちになるようなったとは、本当に母は嬉しい」

 母の無邪気な笑顔を、初めて見たような気がする。あの母が、そんな言葉をかけてくるとは思いもしなかった。もしかして、自分が変わったから、母も今まで言えずにいた言葉をかける事が出来るようになったのかもしれない。殺生丸の驚きの表情は、やがてぎこちなく不器用に浮かんでくる笑みを隠そうとした表情に変わる。

 自分の後ろでりんが、にこにこしながらご母堂と殺生丸を見ている。
 この一瞬を夢見て、りんはここにいたのだから。

「りんや、大きくなった。綺麗になったね。ちゃんと可愛がってもらっていたのが良く判る。お前が殺生丸の側にいたから、今こうしていられるのかも知れぬな」

 ご母堂がりんの手を取りながら、微笑みかけた。それは本当に嬉しそうに。

「……それでは、もうこちらに落ち着かれると言う訳か」

 こんな母なら、滞在も厭わしくはない。りんもきっと喜ぶだろう。

「いや、この不況はこれからますます酷くなるだろう。これからが正念場じゃ。私も急ぎ闘牙の元に戻らねばならぬ。今度は上手く航空便の手配がついたのでな、りんを連れて帰ろうかと思っているのじゃ」
「りんを……」

 ……そうだった。
 りんはこの母が買った、【観用少女】プランツ・ドール
 りんも、母を慕っているのは良く知っている。仲の良い母と娘のように ――――

「お前の所も、これから大変になるだろう。りんの世話も手がかかるだろうし。それに今のお前になら、良い縁も舞い込みそうじゃ。独り身の男が、【観用少女】プランツ・ドールの世話にかまけている、では体裁が悪かろう」
 
 りんの笑みが途中で止まったようになる。

「母上……」
「おいで、りん。母と一緒に帰ろうぞ」

 りんがご母堂の顔を見上げ、それから殺生丸の顔を見る。唇を動かし、掠れた様な空気が微かに動くような音が聞こえた。

「りん?」

 ご母堂が、もう一度りんを呼ぶ。
 りんは ――――

「だ、だいっ…、だいすき!」

 一声そう言って、ご母堂に抱きついた。

「りん!?」

 びっくりしたご母堂がりんを抱き締めようとしたその手をかわし、今度は ――――

「好き! 大好きっっ!!」

 身を翻し、殺生丸の腰の辺りをぎゅっと抱き締めた。
 それは明快な、りんの意思。

「……母上。私にりんを譲って欲しい」
「殺生丸……」

 複雑な思いでご母堂は、その光景を見ていた。やがて、ふぅうと溜息をつくと言葉を続けた。

「……こう、なんとも言えぬ気分だな。まるで娘を嫁に出すような、息子に恋人を紹介されたような、そんな心持ちじゃ」

 取り込んでいる風なその場面を、人の悪い笑顔を浮かべ見ている人物が一人。

「……あの、後日出直して参りましょうか」

 そう、今日夕刻出向くように言い付けていた、あの店の店主。

「おお、そなたはあの折の…!」
「お久しぶりにございます、奥方様」
「うむ、りんは本当に良い【観用少女】プランツ・ドールじゃ。ところで一つ尋ねたいのじゃが、プランツは可愛がればどこまで大きくなるものなのじゃ?」
「お言葉ですが、奥方様。りんはもう既に【観用少女】プランツ・ドールではございません。ミルクと砂糖菓子以外のものをお与えになったのでしょう? 変質しておりますし、大きくお育てにならぬよう身に着けさせるものは小さめにとアドバイス差し上げたにもかかわらず、大きく育ててしまわれた」
「それは、なにか不味いのか?」

 店主の口ぶりに、なにか大きな間違いを犯したのかと不安が胸に湧いてくる。

「ええ、こうなってはもう返品の受付は出来ませんし、育ってしまった元【観用少女】プランツ・ドールを欲しいと言われる方も御座いません。ご自分の手で育てるのが醍醐味ですからね。ですので ―――― 」

 店主の次の言葉を、三人が三様に待ち構える。

「りんの事は、こちらのお屋敷でどうか末永く可愛がってやってくださいませ。いえ、割と良くある話なのでございますよ。飼い主が愛情込めて育てる事で、それにプランツが応えて成長してしまう事は。大抵は、そのまま妻になさる方が多うございますね」

 店主はにっこり笑って、足元に置いていた一番大きな箱を開けた。

 その中には ――――
 純白のウェディングドレス。

「育ち始めたら、あっという間です。すぐ必要になるかと思いまして、お持ちしました」

 まるで、日常茶飯事のように商売の話に持ってゆく店主。額を軽く押さえながら、ご母堂が尋ねる。

「……そんなに、良くある事なのか。その、プランツと人間が結婚するなどと言う事が」
「ええ、そりゃもちろん大きな声で言える事ではありませんが。なにしろ世間一般の常識からすれば人間と人形のカップル、変態扱いも覚悟の上ですね」
「………………………」
「でも大事なのは、お互いに信頼と愛情があるかどうかではありませんか? プランツは絶対裏切りません、嘘をつきません。相手に求めるのは愛情だけです。その愛情を、あの笑顔に変えて相手に返す、そんな存在なのです」

 ふぅぅぅぅ、と今度は先程よりももっと大きな溜息をご母堂はつく。

「殺生丸。お前、その覚悟はあるのか?」
「覚悟と言うより、責任だろう。無責任な事はしたくない」

 母の言葉も、店主の言葉も、どちらも今の殺生丸には関係ない。
 恋愛感情などなくとも、大事に思う気持ちはある。りんが自分に投げかけてくれたあの言葉に、自分も応えたいと思うのは間違いではないだろう。自分がそうりんを仕向けてしまったとしたら、その責任を取るのは自分。


 りん、お前は私の側で笑っていろ。
 その為なら、どんな荒波でも越えてやる。


 そう、ただそれだけの事。


 

 ―――― これは、少し昔の御伽噺。


 氷の心を持った男の心を溶かした、野の花が一輪。
 それからどうなったかはどこにも書かれていない、そんなお話。


【完】
2009.3.18






【 あとがき 】

犬夜叉キャラを「観用少女」の世界観でクロスオーバーさせてみました。
「観用少女」キャラは骨董店の店主しか出てません。
殺りん的には、カップルになる以前の状況ですね。
自分の書くものが行く所まで行った関係を前提に書いている殺りんが多いので、
こういう恋愛以前のくすぐったいような感覚の話を書くのは楽しかったです。
書きながら思ったのが、原作的にはこんな関係が近しいのかなとも思ったり^_^;
捏造妄想が暴走している事を自覚してしまいました。
でも、そっちはそっちで好きなので、これからも書いて行きますねvvv




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