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【 はるかなる空の下 】




 三月中旬、雪こそ解けてなくなったけど、山肌はまだ枯れ草色。この辺りは春の彼岸の頃に野焼きをすると言う。一面焼け野原に変わった山肌が、春の日差しに鮮やかな新緑で彩られる様は壮観だと聞いた。そんな話を学校で聞き、下校途中の帰り道、おれは何気なく塀の上を歩くにゃんこ先生に話しかけた。

「おれ、今度の休みに野焼きの手伝いをすることになった」
「野焼き? ボランティアか。物好きだな、夏目は。そんな調子で、いつも厄介ごとを持ち込んでくる」
「ボランティアが厄介ごとって…。それに妖怪がらみの事件も、おれが好き好んでやってる訳じゃないぞ」

 塀の上を歩いていたにゃんこ先生が、おれの頭に飛び乗り猫の手パンチでおれの頭をポカスカ叩く。

「あ〜、何が好き好んでじゃないなどと、どの口が言いておる! この口か、この口なのかっっ!!」
「わっ、ちょっ、やめっ…! 先生!!」
「夏目はバカみたいにお人好しだし、隙だらけだし、用心棒の私の苦労も考えろ!」
「なんで野焼きの手伝いくらいで、そんなに言われる? 人手が足りないんだって。おれ、この町好きだから!」

 攻撃の二波に身構えていたおれの頭から、ぽんとにゃんこ先生が飛び下りた。

「……まぁ、夏目らしいな。お前は素人なんだから、先輩の爺さん婆さん連中の話をちゃんと聞いておけ」
「ああ、そのつもりだ」
「そう言えば私が封印されていた神社も、この時期は安全祈願する人間がよく訪れていたな」

 山肌に描かれた延焼防止の枯れ草が刈られた跡を見ながら、にゃんこ先生がおれの横を歩きながらそう言う。

「安全祈願?」
「野焼きって結構危険なんだ。煙や焔に巻かれて死傷者が出る事もある。年寄りだからと馬鹿にしちゃならん。こーゆーものは経験が物を言うからな」
「うん、そうだな」

 ふと、何か思い至ったのかにゃんこ先生が細い三日月のような形に目を細めて、じゅるりと涎を垂らしながら言葉を続けた。

「いや、それも悪くない。生で喰う踊り食いも悪くは無いが、ミディアムレアなステーキも捨てがたい」
「なんの話だ?」
「勿論、お前を食う話に決まっておろう」

 おれは半生焼きになった自分を想像し、その怒りのまま自分が殴られた分を倍返しで、ドコっとにゃんこ先生の頭に一発拳骨をお見舞いした。そして先のにゃんこ先生の言葉に、疑問に思っていた事を口にした。

「……前から聞こうと思ってたんだけど、先生はどうして封印なんかされたんだ?」

 おれの問い掛けに、にゃんこ先生の体がびくん、と反応する。招き猫に封印されたからこその、この姿。本性は、強大な犬のような妖だ。態度や大口振りに相応しい実力も持っている。それだけに、こんな姿なのが ――――

「先生?」
「……………………」
「先生!?」

 にゃんこ先生の歩みが止まる。短い足、ぼてっとした胴体、まん丸な顔のユーモラスなにゃんこ先生の全身から、負のオーラが立ち上る。

「……聞きたいのか、夏目。ど〜し〜て〜も、聞きたいのか?」

 ……それは聞くな、と言う無言の圧力。

「い、いや、別に。話したくないなら無理に聞くことはないし ―――― 」

 ふぅぅとにゃんこ先生の身体は逆毛立って膨らみ、もっとパンパンの状態。何か逆鱗に触れたような気がして、おれは妥協案を出した。

「悪かったよ、先生。七辻屋の饅頭買ってやるから、機嫌直せよ」
「ふん! 私の機嫌を直したかったら、羊羹も追加だ!」

 そう言うとにゃんこ先生は、先に立って走り出した。

( 封印って言葉は、先生には禁句だな )

 おれはそう思いながら、にゃんこ先生の後を追いかけた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 いつもならさっさと店の中に入って、あれこれ物色するにゃんこ先生が、珍しく店の前で待っていた。待っていたと言うより、店の中に入るのを躊躇っているような、そんな感じ。

「先生、中に入って選ばないのか?」
「う、いや……。なんだか、妙な胸騒ぎがする。私はここで待っているから、夏目お前一人で行って来い」
「妙な胸騒ぎって、もしかして妖怪?」

 おれはにゃんこ先生の言葉に身構えた。レイコさんの遺品である『友人帳』を狙って妖怪達に襲われるのも日常茶飯事、慣れはしたけど迷惑なものは迷惑だ。

「……違う。その真反対にあるような、そんなものだ」
「ん? 真反対って……?」
「いいからさっさと行って、饅頭と羊羹を買って来い」

 そう言うとにゃんこ先生は、店の前の道の片隅に隠れるように座り込んだ。

( 変な先生だな。一体、何があるって…… )

 おれはそう思いながら、店内に一歩足を踏み入れた。入った瞬間、何か眩しいものを感じたような気がして、足が止まる。ぶんと頭を軽く振って周りを見回してみても、いつもと同じ見慣れた店内。

( ……何だったんだ? 今の感じ )

 おれの前にいたお客は、おれより年上の感じの女の人だった。その人も饅頭と羊羹を買っている。おれの目の前で、最後の羊羹がその人の手に ――――

「あ、それ……」

 おれの小さな呟きに、その人が振り返る。店に入った時に感じた眩しさは、この人のものだった。緩やかな癖のある長い黒髪、強そうな意思を感じさせる瞳。

「ごめんなさい。この先の神社の神主さんに、ここのお菓子が美味しいって聞いたから、欲張って買いすぎちゃった。もしよかったら、これどうぞ」

 その人はにっこり笑って、一本の羊羹をおれに差し出した。

「いえ、そんな……」

 遠慮しようとするおれの手に羊羹を乗せ、その人は先に店を出てゆく。おれはあわてて饅頭の代金を払い、後を追おうとした。その人は、にゃんこ先生とおれが出会った神社の方へ向かっている。

「夏目!」

 道の端で待っていたにゃんこ先生が、おれの肩に乗ってきた。

「どうしたんだ? なぜ、あの娘を追う!?」
「代金、譲ってもらった羊羹の代金を払わないと!」
「……向こうがくれた物なら、そのままもらっておけ!」
「ん、それにちょっと気になる事があるし……」
「夏目……」

 意外と足の速い人で、追いつくのに少しかかってしまった。

「すみません! あの、お代をっっ!!」

 前を行くその人がびっくりしないよう、それでも聞こえる位の大きさの声で呼びかける。おれの声が聞こえたのか、その人が立ち止まった。

「それは差し上げたものだから、お代はいいわ」

 おれの顔を見て、その人は笑いかけながらそう言う。そのにこやかさと対照的に、おれの背中のにゃんこ先生の、警戒している様子がおれに伝わる。

「そんな訳には行きません。見ず知らずの方に……」
「甘い物が好きなんでしょ。とても残念そうに聞こえたから」
「あ、それは、その…、この猫の好物だから ―――― 」

 そう言いながら、おれは背中のにゃんこ先生に横目で視線を向けた。その人の黒い瞳が真っ直ぐに、にゃんこ先生を見つめる。

( はっ! このパターンはまさか、多岐の場合と同じ……!? )

 その人はすっとにゃんこ先生から視線をはずすと、にっこりと笑いながらおれに話しかけた。

「私の家にもね、ものすごいブタ猫がいるのよ。ブヨって言う名前なんだけど、本当に不細工でね。でも、大事な家族の一員なの。羊羹がその猫ちゃんの好物なら、どうぞそのまま受け取ってね」

 そうまで言われては、おれはもう手にした代金をその人に渡す事が出来なかった。

「それじゃ、ご好意ありがたく受け取らせていただきます」

 おれはその人に軽く頭を下げ、お礼を言うと背を向け家に戻ろうとした。にゃんこ先生の硬さも緩んできたように感じる。

「……ねぇ、あなた。一つ聞いてもいい? あなたのその猫、本当に猫?」

 どき、と心臓に響く。解けかけたにゃんこ先生の警戒心が、はっきりと判るほど増大した。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


「あの、何の事を言っているのか、おれには……」

 その言葉に、その人の姿を見直す。おれの目にはその人の全身から、光のようなものが揺らめき立っているのが見えた。おれが店に入った時に感じたものよりも、さらに大きく強く。

「……無駄だ、夏目。この娘には、私の正体がばれているようだ」
「先生!」

 訳知りの者の前以外では、人語を話す事を控えているにゃんこ先生が、初対面のこの人に自分から話しかけた。

「ああ、やっぱり。かなり大きな妖気を二つ感じたから、もしかしたらと思ったんだけど」
「あなたは、一体……!?」
「私は日暮かごめ、ただの神社の娘よ。こちらで神社の神主さんたちの会合があるから、腰の悪いお祖父ちゃんの付き添いでこの町にきたの」
「ただの娘、そんな訳はあるまい! お前も妖祓いの仲間か!!」

 にゃんこ先生が毛を逆立てて、その人に詰め寄る。

「……昔は妖怪退治なんて事もしていたけどね、今はしていないわ。この現代に、そうそう退治しないといけないほどの妖怪もいなくなったし」
「お前、破魔の巫女か。道理で嫌な感じがしたわけだ」
「先生、破魔の巫女って…?」

 神社の娘だと言っていたから、巫女というのはわかる気がする。でも、破魔って事は ――――

「……妖祓いの連中よりも、私たち妖怪に取ってはもっと性質の悪い者だ。祓うのではなく、滅する事を生業とするのだからな」

 今にも先生は、変化しそうな気配。

「……昔の話だって言ったでしょ。それに私、妖怪だからって全部が全部悪いとは思っていないわよ?」
「日暮さん……」

 優しく微笑みながら、その人は警戒しているにゃんこ先生の側に歩み寄り、そっとその毛並みを撫でた。

「羨ましいわ。どんな経緯があったかは知らないけど、こうして人と妖が仲良く暮らせているなんて」

 にゃんこ先生を撫でるその手は、優しくそしてとても思いを込めているような、そんな気がした。にゃんこ先生の警戒心が解け、その人の撫でるままにさせている。

「……娘、ちょっと話を聞こうか。お前のその手から伝わるのは、苦しいほどの熱い思いと切なさだ」
「先生」

 人目を避けるためか、にゃんこ先生は神社の横を通り過ぎ、鎮守の森の奥へと先立って歩き始めた。森を抜けるとそこは、少しだけ開けた草原のある小さな崖になっていた。目の前に、まだ冬眠から醒めない田畑や冬枯れの山肌と、それを被う明るい春の空が視界いっぱいに広がった。

「ここなら、人間の眼もない。お前の破魔の気を恐れ、下級・中級の妖怪の邪魔も入るまい」
「日暮さん、あなたも妖怪が見えるんですね?」

 この町に来て、おれはおれ以外にも妖怪が見える人たちと出会った。主に妖祓いを稼業にしているような人たちで、その人たちはどこか妖怪を悪いモノと見、憎んでいるような人たちばかりだった。だから、この人みたいに妖怪が見えて退治した事もあるのに、今のおれとにゃんこ先生を見て羨ましいと言う人がいるなんて、思いもしなかった。

「えっと、あなたは…、夏目君? そう、あなたも妖怪が見えるのね」
「はい。おれの祖母も妖怪が見える人だったそうです。そのせいか、おれも物心がついたころから、他の人に見えないモノが見えていました」

 その人は、崖の端まで歩いてゆき、春色の空を見上げている。

「私は十五の春に、いきなり見えるようになったの。私は、大昔のとても力の強い巫女の生まれ変わりなんですって」
「生まれ変わり……」

 遠い瞳で、空の彼方を切なそうに懐かしそうに見つめながら、その人は言葉を続けた。

「……運命だったのかなって、今なら思う。その時代に呼ばれて、成す事を成す為に、この破魔の力が目覚めたのは」
「あの、それで……」

 おれは言葉を探す。今まで見えなかった妖怪がいきなり見えるようになった時の恐怖は、どれほどのモノだったろう。おれだって、慣れるまでにどれぐらいかかった事か。それとは別に、この人の言葉には、よく意味の判らないところもあった。

「怖かったわよ、最初は。本当にいつ喰われるか殺されるかって感じで」
「ああ、それよく判ります。ほんっとうにどの妖怪も食い意地ばっかり張ってて……」

 おれは、ちらっとにゃんこ先生の顔を見る。
 ふぃ、とにゃんこ先生が顔を逸らす。

「こんな事、現実じゃない。夢なんだって思いたかったわ。でもね、そんな私を助けてくれる人たちと出会えたから、私頑張れたの」

 この人を見たときの眩しさは、霊力の高さだけではなく、家族に恵まれ陽の当る所で真っ直ぐに生きてきた輝きなのだろう。安心する事の出来る、居場所を持つものの強さみたいな。

「おれと随分違いますね。やっぱり、ちゃんと家族のある人は強いんだろうな」
「夏目君……」

 おれは一呼吸置いて、話し出す。同じように妖怪が見えていても、判ってもらえないだろうなと思いながら。

「おれの知っている妖が見える人たちは、大抵がその『見える事』で、影の部分を抱えていました。」
「影の部分?」
「そう。普通の人の中に上手く馴染めなかったり、仲間はずれにされたり。憎んだり嫌う人の方が多かった。おれも両親を早くに亡くし、親戚をたらい回しにされたんです。その理由が妖怪を見て怯えるおれが、嘘つきで気味が悪い、と言う理由でした」

 ふっと、その人の瞳が翳る。

「たらい回しに……。自分の居場所がなかった…?」
「はい。どこの家に行っても『家族』じゃないと、いらないもの扱いでした」
「でも、今は違うのよね?」
「ええ、この町に来てからは。にゃんこ先生に出会ってからは」
「良かった。一人は、居場所がないのは、本当に悲しいもの。この町で、落ち着いた暮らしをしているのね」

 おれを見返すその人の瞳は、おれを通して他の誰かを見ている。

「落ち着いたというか…。まぁ色々あるし、相変わらず妖怪は見えるし、ちょっかいもかけられるから、あれですけど」
「だから私がいるのだろう、夏目」

 合いの手を入れるようなタイミングで、にゃんこ先生が口を挟む。

「ん? それは、どういう……」

 小首を傾げる様な仕草で、その人が尋ねる。

「こやつはぼやーっとしておるから、いつ何時他の妖怪に喰われんともかぎらん。これとは、封印を解いてもらった時にある約束をしておってな、その為に用心棒をしてやっている」
「封印? 用心棒? 妖怪って力も体格も強くて大きなモノが多いから、にゃんこちゃん、妖力はありそうだけど体格的に大丈夫? 大変なんじゃない?」

 それはそういう場面を潜り抜けて来たからこそ、言える言葉。しかしにゃんこ先生には、挑発のように聞こえたのだろう。

「この私に大丈夫かと? ならば、この姿でならどうだ!」

 まんまるパンパンなにゃんこ先生の姿が内側から弾けるような光とともに、妖犬・斑の姿に変わる。額に紋章、金色の眸に輝く強大な白銀の体。長い尾は優美さを醸し出してゆるやかに揺れる。

 にゃんこ先生の変化姿を見たその人の行動が、おれにはあまりにも印象的だった。驚きで瞳を見開き、やがてスローモーションのように先生にかけよると、その鼻先に腕を回して頬を寄せた。その瞳には、涙が浮かんでいる。

「お、おい、娘! 一体何だっっ!!」
「生きて、今も、こうして生きているのね! また、逢えるかもしれないのね!!」
「日暮さん!!」

 びっくりしているおれ達に気付き、その人は少し儚げな微笑を浮かべて先生から離れた。

「ごめんなさい、びっくりさせて。でも、私の御伽噺のような話を、あなた達ならちゃんと聞いてくれそうな気がする」
「日暮さん……」
「私、昔は妖怪退治もしていたって言ったでしょう? あれは、この現代での話ではないのよ」
「あ、あの…、おれ 話の意味がよく判らないんだけど ―――― 」 
「私が逢いたい犬夜叉も、私がこの手で封印を解いたの。そしてそれからずっと、時の向こうの世界で私の事を守ってくれた。私が向こうの世界での使命を果たし終える、その時まで」

 おれの戸惑ったような発言は、そのまま流されてしまう。

 そうして聞いたその話は、とても不思議なものだった。
 その人の実家の神社にある、封印された隠し井戸。
 十五歳の誕生日にその井戸の封印は破れ、出てきた妖怪に井戸の中に引き込まれた。
 井戸の底は五百年前の世界、人も妖も混在して生きていた時代。

 そこで出会った、封印された妖。

 封印したのは、その人の前世である破魔の力を持つ巫女。
 妖を退魔せしものと、されるものでありながら、互いに惹かれあった二人。
 それを快く思わないモノの謀で、互いに疑いあい憎しみあった果ての封印と早世。

「……桔梗は死に、犬夜叉は封印された。それが間違いだったの。私はその間違いを正す為、そしてその桔梗がその時代で果たすはずだった使命を果たすため、時を渡ったの」
「…………………」
「ね、信じられない話でしょう?」

 目を丸くして聞いているおれに、その人は弱々しく笑いかけながらそう尋ねた。 

「いや…。おれだって妖怪が見えない人に、いくらそこに居ると言っても、信じてもらえなかった。だから、おれは信じます」
「ありがとう、夏目君」
「それでお前は、どうしたんだ」

 斑の姿のままで先生が、先を促す。

「現代と過去とを行ったり来たりしながら、旅を続けたわ。その時代には、人であろうと妖であろうと願ったものの望みを叶える『四魂の玉』があったの。この世にあってはどんな禍を呼ぶか判らないからと、私の前世である桔梗が死ぬ時に、あの世に持って行った玉」
「ほう、それは面白い。そそられるな」

 先生の眼が、面白い玩具を見つけたように怪しく光る。

「その玉は、未来で転生した私の体の中にあったの。過去に飛ばされて、妖怪に襲われた時に負った傷口から飛び出して……。それを私がうっかり砕いてしまって、四方八方に飛び散った四魂の玉の欠片。欠片一つでも、もし性格の悪い人や妖の手に渡ったら大変な事になる。その欠片を集めて浄化させるのが旅の目的」

 その人の話は続く。欠片集めの旅は、やがてその背後にいる諸悪の根源ともいえる存在に辿り着く。その人の前世である巫女と、巫女に惹かれた妖とを陥れ、死なせ封印されるように仕向けたモノに。その存在と玉を消滅させるまでの死闘は、自分とそう変わらない一人の少女の肩に、どれだけの重荷だった事だろう。

「その旅の中で、私は犬夜叉の事がとても大事な存在になった。ずっと側に居たいと思うくらいに。でも…、私が過去に行けるのは、私の前世であった桔梗が遣り残した事を成就させる為。いつまでも過去と現在を行き来できる訳はない。未来を知っている人間の存在は、過去を変えてしまう危険があるから」
「ああ、そう言えば何かの本で読んだことがある。本来ならそこに居ないはずの人間が過去に存在する事で、未来にどのくらいの影響が出るかみたいな奴」
「だから私は現代に連れ戻され、井戸は閉じてしまった。犬夜叉への想いを、ここに残したまま……」

 ぎゅと自分の胸を押さえ、その人は辛そうに声を震わせる。

「……その名からして、お前が惚れた妖は犬妖なのだな? 夏目も物好きだが、お前はそれを上回るようだ。このような獣姿に惚れるとは」

 話を聞き終わったにゃんこ先生が、判らんと言う風に頭を振る。

「犬夜叉は確かに犬妖の血を引いてるけど、半妖だから犬耳だけだった。そう、ちょうど先生の耳みたいな。あとは人間とそう変わりのない姿」
「半妖って……?」

 言葉の響きから、予想は付くけど確かめる意味も込めて、そう聞き返す。

「犬夜叉はお父さんが妖怪で、お母さんが人間。半妖は純血を尊ぶ妖怪から物凄く蔑まれ、人間からは妖怪と通じた母から生まれたと言う事で忌避される。だから犬夜叉は、妖怪の世界にも人間の世界にも居場所がなかった」
「あっ……」

 居場所の無い辛さは、よく知っている。
 自分など、居なければよいのにと思ったこともある。

「お前にとってその半妖が大事な存在になったように、その半妖もお前を必要としたのではないか?」
「判らない。私を家族の下に送り届けてくれた時の顔は、何かを決心したような表情だったけど」
「お前の為を思っての事だろう。時至らぬまま引き離される悲しさを、お前やお前の家族に味わわせたくないと」

 時の流れ。

 その半妖が、この人を自分の時代に引き止めてしまえば現代に残る家族に取って、この人は数百年前に死んだ事になる。こちらとあちらに別れてしまえば、今 この人が思っているその半妖は、すでに ――――

( 先生…… )

 その流れの早さの違いを、良く知っているのはにゃんこ先生。
 残すものと残されるものの、あの寂しさは ――――

「向こうの世界に行けなくなってから、気付いたの。現代には、もうあの頃のような妖怪が殆どいない事に。たまに見かける事もあるけれど、そのどれもが妖怪と言うよりも妖精のような、自然の気が凝ったモノだった」
「じゃ、先生の本性を見てあんなに喜んだのは……」

 その人が小さく頷く。

「犬夜叉には、完全な妖怪のお兄さんがいるの。そのお兄さんと先生、良く似ているのよ。それなら、あいつも現在まで生き残っているかもしれない。もしかしたら、そうもしかしたら犬夜叉も…、そう思ったら私 ―――― 」
「日暮さん……」
「ねぇ、知らない!? 先生! あいつの事やその異母弟の事を!!」

 すっとにゃんこ先生が、あの招き猫姿に戻る。

「……私も長く生きているが、そのようなモノの噂は聞いた事がない。ただ、もうずっと大昔、人間好きな物好きが一匹、酔狂な事に都に上り、帰ってこない事があった。その地で果てたとも、人間に紛れて生き永らえているとも言われておるが、それがそやつらに縁のある妖のことなのかどうかは知らぬ。縄張りを離れた一匹モノは、よほどの事がないかぎり地に着く事がないからな」
「そう…。でも、生きている可能性もあるのね?」
「判らん。それもその妖や半妖次第だろう。まぁ、少なくともあっけなく死んでしまう人間よりは長く生きるがな」

 この人に取って、にゃんこ先生との出逢いは、『一つの可能性』を指し示したのだろう。

「……三年前、私はあの時、まだなんの覚悟もしていなかったの。判っていたことなのにね。どちらかの時代にしかいられないって事。犬夜叉の時代に残る覚悟も、犬夜叉と別れる覚悟も。どちらもしないままだから、今も私の足元は宙ぶらりん」
「ふ…ん、それで」

 もう、あきらかに興味が失せたという風情で、半分あくび交じりににゃんこ先生が話を聞いている。

「……別れなんていつ来るか判らない。だから、今を十分心を込めて過ごしたいと思うようになった。明日の為にも、『今』が大事なんだって。今なら私、覚悟は出来てる」

 ふぁああと伸びをして、にゃんこ先生がその場を後にしだした。

「まぁ、酒を飲む仲間にでも聞いておいてやろう。未だに心変わりもせずに人間の娘を想っている、五百歳過ぎの老いぼれ半妖がいるかどうかな」
「先生! その物言い酷すぎる!!」

 おれはその言い方があんまりすぎて、その人の表情をそっと伺いながら見た。笑い泣きのような表情を浮かべ、暮れかかる空をその人は見上げた。

「ここの空は綺麗ね。あの時代まで続いているような気がする。向こうで私、よく犬夜叉と空を見たわ。今でも見上げる。犬夜叉も、そうしているような気がして」
「日暮さん」

 夕暮れ時の光のような曖昧な表情をすっと納め、最初あった時と同じ強い明るさを含んだ表情になる。

「ウチのお祖父ちゃん、今年は地区の世話係だから話し合いだとかなんだで、ちょこちょこここに来るの。その時、またこうして話をさせてもらってもいいかしら?」
「ええ、構いません。おれにも興味深い話でしたし」

 その人を神社の社務所に送っていきながら、この世の中にはいろんな事があるものだと、そう思う。自分の身の上や、状況以上のびっくりするような事が。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 野焼きの後に芽吹いた新芽がすっかり生えそろい、山の斜面は鮮やかな緑の絨毯のようだ。季節は新緑の時を迎え、連休を控えた事もあり、どこか浮きたつ気分を感じていた。

「あ、おい! 夏目!! 七辻屋に柏餅が出とるぞ! 買え、買ってくれ!!」
「先生、甘いものばっかり食べてると、メタボが進むぞ」
「構わん、私はこう見えても上級だ! メタボ如きなにほどものかっっ!!」

 地団駄の代りに、おれの後頭部をペシペシ叩き店内へと追いやる。店内には男子中学生の客が一人。その客の前ににゃんこ先生はしゃしゃり出て、和菓子を並べているガラスケースの中を物色している。

「あれ、ブヨ!? じゃないか、模様が違うな。 ブタってるところはそっくりだけど」

( えっ? いま、ブヨって…… )

 先に買い物を済ませた男子中学生の後を追うように手早く勘定をすませると、急ぎその子の後を追った。何か察したのかにゃんこ先生が先回りをして、その中学生の足を止めていてくれた。

「にゃにゃにゃにゃ〜ん、にゃにゃっっ!」
「なんだよ、このブタ猫! これを狙ってるのかっっ!!」
「にゃにゃっっ!!」

 追いつき、慌てて声をかける。

「ごめん! それ、ウチの猫なんだ。甘いものに目がないから…、ほら、先生。こっちだ」
「ふん、飼い猫なら飼い猫らしく、飼い主がちゃんと躾けろよな」

 今時の中学生らしく、言いたい事を言うとさっさと歩き出す。

「あの、さっきこいつの事、ブヨって呼んでたけど」
「ああ。ウチのブタ猫に似てたからさ。でもウチのはこんなに躾け悪くないぜ」
「それじゃ、君、日暮さん?」

 歩きかけていたその中学生の足が止まる。

「……なんで、知ってる?」
「やっぱり。君のお姉さんにその猫の事を聞いていたから。その時、またこちらに来た時に話をしたいと言われていた。今日もお姉さんは来てるのかな?」

 その中学生は呆気に取られた顔でおれを見、それからすっと足元に視線を落とした。

「……姉ちゃんなら、嫁に行った。もう、二度と会えないくらい遠い所に」

 遠い所。
 それは、あの時聞いた、時の向こうの世界の事だろうか?

「それは…、お目出度い事だけど、ちょっと寂しいね」

 その子は俯いたまま、足元の石を蹴り飛ばす。

「寂しいけど、犬の兄ちゃんなら絶対姉ちゃんを幸せにしてくれるって、俺信じてるから……。姉ちゃんが幸せで笑ってくれているほうが、おれも嬉しいから」

 ああ、やっぱりとそう思う。
 あの人は、きっと迷う事無く大好きな半妖の彼がいる世界に飛び込んでいったのだろう。

「そうか、うん、それならもういいんだ。引き止めて悪かったな」
「姉ちゃん美人だから、そっちこそ残念だったね。売約済みでさ」
「知ってたよ、聞いたから。あの人は、自分の望む場所に旅立ったんだなって」

 その子をその場に残し、にゃんこ先生と顔を見合わせ、おれ達はあの小さな崖の所へやってきた。

「夏目」
「あの時、あの人はこの空が自分の好きな半妖の所に、続いているみたいだって言っていた。本当に続いていたんだな」
「ああ。閉じていた時の井戸が、また通じた。戻る事のない、片道だけの道行きで」
「想いって、凄いな」
「特に人間の一方的な想いはな」
「先生?」

 はぁ〜、と深く溜息を付きながら頭をふりふり、にゃんこ先生は言葉を続けた。

「そうじゃろ? 夏目! こ〜んな便利なものがあふれて、安全で清潔な現代の生活を捨てて、不便で危険で不衛生な昔の時代に飛び込むなんて、物凄い物好きだ! 私には判らん!!」
「……そんなもの全部引き換えにしても構わないくらいのものが、その時代にあったんだろ。人の幸せや価値観は、周りが決めるもんじゃないんだろうな」

 にゃんこ先生が、空を見上げる。

「……五百年前の世界になんぞ行きおって、親より先に死ぬるとは親不孝な娘だ」
「親不孝なんかじゃない。あの子やあの人の家族は、あの人が幸せになるために送り出したんだ」
「……言うておったな。別れなどいつ来るか判らん。だから『今』が大事じゃと」
「あの人はきっと家族と別れるその瞬間まで、家族を大事に大切にしていたんだと思う。だからこそ、今度は旅立てたんだ」
「お前も、そうか?」
「えっ?」

 一瞬、にゃんこ先生の声が真剣になった。

「ああ。今を、にゃんこ先生や塔子さん達や学校のみんなと過ごせるこの時を、大事に大切にしたいと思ってる」
「それなら早く、昔の事など忘れてしまえ。しょっちゅう夢でうなされおって」
「……出来るものなら」

 そう、いつか。

 おれの夢に、にゃんこ先生や優しいみんなが遊びに来てくれるようになるだろう。
 そんな時を重ねて、そして、いつか ――――――


 おれも、ゆく。
 にゃんこ先生が、笑いながらおれを思い出してくれるようになれば良いと想いながら。
 それが残される先生への、感謝の気持ち。

 想いは途切れる事無く、ずっと ――――
 

 はるか、過去へも
 そして、未来へも 


 見上げた五月の空は、どこまでも遠く続いていた。


【終】
2009.4.30


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