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【 a lone wolf 】



 風が冷たい、月の青い夜だった。
 この街では夜の静寂など望めもしないが、ビルの屋上に出て月を望めば、遥か古の青々とした幻の草原さえ浮かんでくる。かつてこんな夜には、岩山の頂で、深い森の奥で、そして月に照らされた草の海原で彼らの歌声が響いたもの。

 今ではもう、耳にする事もできない幻の声。

 店を閉め、一日が終ろうとするそんな時。ふと、私の六感に何かが囁く。この手の囁きで的を外した事はない。『何か』貴重なモノがこの近辺を彷徨っている。

「……これは、行くべきでしょうね」

 外出の支度をする私を見、テッちゃん達がざわつく。

「伯爵、今からお出かけ?」

 もう休むばかりだったポンちゃんが、眠たい目をこすりながら言葉をかけてくる。

「ええ、予定外なんですけどね」
「こんな時間に伯爵一人じゃ危ない。俺がボディーガード代わりに一緒にってやる!」

 胸を張り、そう言うのは饕餮のテッちゃん。
 その申し出を、私は笑顔でいなした。

「大丈夫ですよ。私、こう見えても強いですから。それに今のテッちゃんだと、深夜徘徊で補導されちゃいますよ? その方が私に取ってはマズイのですが」
「なら、この姿なら!?」

 たちまちテッちゃんは本性である妖獣姿に戻る。鋭い爪と牙、人食いの本性を持つその姿に。私の下に来て、もう随分になる。もともとそれだけの力のある妖獣だった事も有り、私の側であれば自分の姿を人型に見せる事も、獣姿に見せる事も選べるようになっていた。

「……それはそれで目立ちますし、ターゲットに警戒されそうです。同属に対しては殊更反発しそうですし」
「ターゲット? それじゃ……」
「珍しい子がうろついているようです。なので、ちょっと逢ってきますね」

 私の目的を察して、テッちゃんは不承不承ついてゆくのを諦めた。

 店の扉から出てみると、通常の営業を終えたテナントはシャッターを下ろし、フロアは通路を照らす非常灯の薄暗い照明だけ。深夜営業の店はビルの地下にあり、この十三階のフロアはしんと静まり返っている。ここを生活の場にしているのは私くらいのもので、他の店子達はみなそれぞれに自分の帰るべき『場所』を持っていた。それは家庭であったり、自分だけの空間であったり、人として寛げる癒される場所。私にすれば、それはペット達と共に在ることがそれだった。

 ―――― それしか、なかった。

 特別に与えられたパス・キーでビルの関係者だけが出入りできる裏口の扉を開き、夜の新宿の街の闇に溶け込む。自分の用いる感覚の全てを研ぎ澄まし、ほんの一瞬捕獲した、「あの感覚」を追い始める。行き場を求めている、仲間を求めているあの声に応える為に。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 俺みたいなモノでも、どうにかやってゆけるものだと目の前の何杯目かのストレートのグラスを揺らす。飲む酒の種類も随分変った。昔は濁り酒や猿酒のようなものしかなかったが、今ではこんな酒も口にする。めったに酔うことはないが、それでも自分を忘れられるくらい酔いたくてがぶ飲みすることも少なくない。

( ……一人で飲む酒は、ちっとも酔えねぇ )

 今夜も何件かの酒場を梯子した。その度ごとに札びらを切る俺の後を、目付きの良くない奴等が四・五人つけてきている。俺が酔いつぶれるのを待っているのか。腹を空かせた野良犬のような卑しさを感じさせる男達。お前達は俺を獲物と思っているのだろうが、俺に狩られるのは他でもないお前達自身。

 酒場の扉が開かれたのか淀んだような空気がざわりと動き、異質な『気』が流れ込んできた。

( 客? 他とは少し違うな )

 珍しいことにどちらかと言えば避けられがちな俺の隣に、そいつは座った。

「こんばんは、マスター」
「おや、珍しいですね。今夜はお一人ですか?」

 顔見知りなのか、そんな気軽な声を交わしている。

「よしてください、別につるんでいる訳じゃありません。今夜は素敵な出逢いがありそうな予感がして、出かけてみたんですよ」
「素敵な出逢いって、そりゃ女ですかね? それとも男?」

 こんな街の酒場なら、当たり前なその内容。色んな『人間』が雑多に混じりあって生きている。そんな密林のような場所だから、こんな俺でも隠れ住む事が出来る訳だ。

「そんな意味じゃないですけどね。まぁ、後はマスターのご想像にお任せします。あ、今夜はブラッディ・マリーをくださいな」

 聞き耳を立てるまでもなく、良く聞こえるその会話。まったくのどこにでも良くある酒場の光景であるにも関わらず、なぜか注意を逸らせない。ちらりと盗むようにそいつの様子を見てみれば、整った顔立ちの若い男。古臭い感じすら着こなして中国風のゾロリと長い服を着ている。拳法の達人のような雰囲気もあるが見目の良さがそれを打ち消して、どちらかと言えばこの街に相応しい男娼の麗人。ついそんな事を考えながら、目の前のグラスを一気に空ける。

「まぁ、お強いのですね」

 唐突にかけられた声。
 もう随分と長い事感じた事のない緊張感が全身を走る。思わず相手の顔をまじまじと見てしまった。そいつは得体の知れなさが更に増す、色違いの瞳に柔和な笑顔を浮かべ俺を見返していた。

「お近づきの印に、どうか一杯私にご馳走させてくださいな」

 笑顔でマスターに合図を送ると、マスターも承知したように新しいグラスを俺の前に置いた。

「どうなさいました? そんなに驚いたような顔をされて……。ああ失礼。自己紹介がまだですね。私、この近所でペットショップを営んでおります、D伯爵と申します」
「ペットショップ……? 伯爵…?」
「通り名ですよ。店の屋号がそれなものなので」

 薄暗い場末の酒場の店内、隣の人間の顔立ちも良く判らないような暗さの中、その男の姿だけは異様に浮かび出るように俺の眸に映った。一見すれば、綺麗でなよなよしている。しかし、俺を見据えるその眼の鋭さと奥の知れなさに、俺の本能が警戒しろと命じていた。

 金と薄墨色の瞳に妖しい笑みが浮かぶのを俺は見た。

「ええ…。ですから、判るのです。そう、獣のことは ―――― 」

 ぎくり、とする。
 まさか、この男は ――――

「捜しましたよ、月に啼く声を耳にして。一人で飲むお酒は、どうにも気が滅入りますしね」
「お前、何を言っている?」
「あなたがお寂しいのではないかと思い、お迎えに参ったのです。どうですか? 私の店に参りませんか?」

 伯爵らしく単刀直入に、自分の要望をそう述べた。

「はっ! 俺は住所不定の根無し草だ。ペットを飼うような男じゃねぇ。客を引くなら他の奴を当たれ」

 まさかとは思う。
 思うが、もしかして俺の正体をこの男は見抜いているのか?
 最後の妖狼族である俺の事を……。

 これ以上、この男と関わるのは危険だと俺は思い席を立つ。俺の動きに合わせて、前の店から付いてきていた奴等も動き出す。今夜は何かきな臭い気がするが、今までの俺のやり方を変える気もない。もしこの男がこれ以上俺に纏わり付いて巻き添えを食ったとしても、それは自業自得だろう。
 店を出ると、案の定やつらが俺の後をついてくる。更に気配を探ればあの伯爵と名乗った男も、やつらの後方からついてきていた。

( ……面倒を起こしたくないが、あの男はヤバそうだ。チンピラ同士の喧嘩の巻き添えで関係ない奴がワリを食うのも良くある話。殺るか )

 やつらが俺を襲いやすいように、出来るだけ人気のない薄暗い路地を選んで歩いてゆく。壊れた街灯、ショートして点滅するネオインサイン、不況の風を受けて閉店した店のシャッターや明かりのない幽霊のような雑居ビルが増えてくる。そんなビルの錆びたチェーンのかけられた地下駐車場に俺は入り込んだ。
駐車場の突き当たりで俺は振り返る。ここでなら、俺の本性を見せても他の人間に気づかれる事はないだろう。グルグルと喉声が自然と沸いてくる。牙と爪、全身の筋肉に妖力が満ちてくる。暗闇に狼の青い眸の焔が燃え上がる。

「……よほど自信があるのか、バカなのか。てめぇの死に場所はここかよっ!!」

 最初からつけてきていたやつらは、どこかで俺が恨みを買ったやつらだろう。札びらを切れば、浅ましい奴がそれを狙って襲ってくる事がしばしばある。それを返り討ちにしたところで、人間共の言う所の『正当防衛』って奴だろう。中には奇特な奴も居て、有り金はたいて逃げて行くこともある。お陰でこちとら金には困らない。

「俺の…? そりゃ、間違いだろ? ここはお前等のために選んだ場所だ。みっともねぇ死に様を晒さないで済むようにな!」

 全身の筋肉を撓め、後ろ足でコンクリートの床を蹴る。最初の獲物の喉を鋭い爪で切り裂く。俺に襲われた男は血しぶきを上げて後ろへと倒れこんだ。

「こいつ! いつの間に獲物を手にはめやがったっっ!?」

 俺の爪は自前だが、人間どもはそれを真似て鋼鉄のまがい物の爪をつけて闘う事がある。そんなモノと一緒にされたくはない。

「早くびょーいんとやらに連れてかないと、そいつ死んじまうぜ?」

 爪に付いた血糊を振り落としながら、余裕を見せてやる。こいつらは殺しても殺さなくてもいいが、あの男は仕留めといたほうが良いだろう。一人、駐車場の入り口に立ちこちらを見ている、あの男。金色の右の眼が光っている。

「……構わん。病院なんかに連れて行けば警察沙汰になる。それはこちとらもごめんだ。俺達の顔をつぶしてくれたお前をぶっ殺せばそれですむ!!」

 残っていた連中が一斉に懐から拳銃を取り出した。いくら人気のない所でも、発砲すれば警察が飛んでくるだろう。

「おいおい、お前等言ってることとやってる事が違うぞ!? それにほら、目撃者もいるし」

 俺への報復で気が付いていなさそうな連中に、あの男の存在を知らせる。話を振られても、あの男『伯爵』は悠然と、いや面白いものでも見物しているかのような薄笑いを浮かべてこの様子を見ていた。

「ああ、どうぞ私にはお構いなく。警察に通報するようなこともしませんし、成り行きを見ているだけですから」

 涼しい顔、とはこんな表情を言うのだろう。
 いや、もしかしたらこの男も、こいつらの仲間だったのか!?

 もしそうなら、かなりヤバイ。
 あいつらに背中を見せるより、伯爵に背中を見せるほうがよほど危険だと俺は感じた。

「なんだ、お前! そいつの仲間じゃねーのかっっ!! まぁどのみち蜂の巣だ!!」

 背後のその言葉で仲間ではないらしいと察したが、伯爵が何者であるかは判らない。危険承知で強行突破をかける。伯爵を盾にすれば十分逃げおおせられるだろう。最初の弾幕さえやりすごせば、あとはこちらからの応酬で息の根を止められる。俺の背後で撃鉄を起こす音が聞こえた。
 そんな様子も駐車場の入り口からなら、薄ぼんやりとでも見えているだろうに伯爵は微動だにしない。冷たさを感じさせる視線で、こちらを見下ろすのみ。半分闇に溶けたような伯爵の影がゆらりと立ち上り、別の生き物のように蠢く。
 それに気を取られ、今一歩出遅れた。俺の足や脇腹に焼きつくような痛みが走る。流れ弾は伯爵の体も傷つけた。痛みのあまり見た幻覚なのか、伯爵の傷口から溢れる鮮血。その鮮血から湧き上がる魑魅魍魎共に俺の視線は凍りついた。思ったより深手を負ったらしい、俺が崩れ折れるのと銃撃音が止むのは同時。弾を込めながら、あいつらが近付いてくる気配を感じる。

( 俺としたことが、ドジ踏んじまったな。でも、もういいかもしれねぇ…。もう、一人でいるのは…… )

「ちっとも大丈夫じゃないじゃねーか、伯爵。血の匂いがしたから、慌てて飛んできたんだぜ」
「ほほ、手を煩わせますね、テッちゃん。なかなかハードな成り行きになりまして」

( ……誰と話してんだ? 伯爵の仲間か…? )

 埃臭いコンクリートの床に横たわり、かすむ視界で俺の横を通り過ぎるなにかの足元を見た。牛か羊のような体に長く延びた鋭い五本爪の手足。人のような横顔から覗くのは虎の牙、曲がった大きな角。

( こ、これは…、まさか妖怪? )

「で、こいつら食っちまってもいいんだな?」
「ええ、その方が人間達の為にはなるようです。それも本当はどうでも良いことなんですけどね」

 そのバケモノを先頭に、幻覚の中の魑魅魍魎も後に続く。
 あいつらの銃撃音が聞こえたのは最初の何発かだけで、あとは猛々しい獣の咆哮と男達の絶叫、肉を噛み裂き骨を砕く音だけが耳に残った。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 薄ぼんやりとした意識は、明るい照明とはっきりした痛みとでたちまち正気に引き戻された。ざわざわとした空気とあの地下駐車場とは正反対な甘い匂いと何かほっとするような温かな茶の香り。

「大丈夫かなぁ、こんなに撃たれちゃってるけど」

 すぐ側で聞こえたのはまだ幼い娘の声。

「ええ、弾は全部抜きましたし、それに彼は特別ですからね」

 その声で、俺の警戒心は最大になる。状況は良く判らないが、とにかく俺は体を起こした。

「わっ、びっくりした!!」

 俺を覗き込んでいたのか、やたらとフリフリとした格好の娘が尻餅をついた。起き上がった俺の視界に飛び込んできたのは、俺を見つめるヒトとも獣ともつかない沢山の眸。

「急に動くとまた出血しますよ」

 薬臭い箱や白い布を片付けながら、伯爵が声をかける。その言葉に自分の姿を見てみれば、着ていた服の代わりに白い着物のようなものを着せられ、銃に撃たれた傷は手当されて包帯を巻かれていた。

「お前、何を……」
「何をって、傷の手当です。そのままにしている訳にはいきませんし、勝手に着替えさせた失礼はご容赦を。それにしても立派な尻尾ですね。見事な毛並みです」

 うっとりとした口調で伯爵は、俺の狼の尻尾に熱い視線を送っていた。銃で撃たれて気力が途切れたせいで、人間に化けていたのが本性を現してしまったらしい。

「……酒場でお誘いした時に、素直に来てくださればこんな怪我はしなくて済んだかもしれませんよ?」
「お前、何者だ? 妖怪なのか!? こいつらも……」

 ふっと伯爵の表情が変る。赤い唇にすらりとした指を一本立てて、口外無用と仕草で表す。綺麗に手入れされた鋭い爪が部屋の照明を受けてきらりと光る。

「良くご覧下さい。ここにいるのは私の店の子たちばかり。可愛いペットばかりですよ」
「えっ…?」

 俺の視界がぐらりと霞み、次に視界が鮮明になった時には部屋中にいたそれらのものは大型犬やたくさんの猫たちだったり、ニシキヘビやイグアナ、オウムや孔雀などの動物たちだった。

「お誘いしたのは、あなたもここの仲間になりませんかと言う事です」
「俺を……?」
「はい、あなたはもうこの国では最後のニホンオオカミ、いえ妖狼。独りで彷徨うのはお寂しいでしょう」
「……それで、お前はあいつみたいに俺やそこのやつらを取り込む訳か」
「私は妖怪ではありませんよ? これでも悲しいかな『人間』らしいですから」
「だけど! あの時、お前の体から魑魅魍魎どもが湧き出してたじゃねーかっっ!!」

 なぜかこの時だけ、伯爵と奈落が重なった。そう、あいつも最初は『人間』だったらしい。その尽きせぬ欲望に身を任せて『奈落』なんて半妖に、バケモノに成り果てた。得るものなど、何もないままに。

「ああ、あれは……。私の体に流れる血に刻まれた、この惑星(ほし)に生まれた、ありとあらゆる生き物の『記憶』です。あなたが見たのは、その幻影(かげ)ですよ」
「幻影? まさか! 実際にあいつらを襲って食ってたのにか!!」
「それも、幻です」

 謎めいた笑みを浮かべ、俺の次の言葉を待っているようだった。俺はまだこの状況が飲み込めず、伯爵の得体の知れなさに逆毛が立ちかけていた。

「伯爵〜、片付けてきたぜ」

 あの時、地下駐車場に現れた獣が伯爵の側に寄ってきた。気を失う前だったから、それが何かよく判ってなかったが、今あらためてその姿を見るとそれはずっと以前、一族の長老から聞いた事がある古の妖獣・饕餮。同じ『人食い』の獣として、先達のように伝えられてきたその存在。

「骨の一欠片、血の一滴も残さないよう綺麗に完食しろって言われたから、そーしたけど。だけどあいつら、不味かった! 胸焼けするぜ」
「そう思ってちゃんと口直しのお茶を用意してますよ。今日はご苦労様でした」

 動物の姿に見えていたモノ達も、半人半獣のような姿になって夜の茶会を始める。人型を取った饕餮が俺をジロジロと眺め、それから俺の肩をぐいと引き寄せた。

「同じ人食い同士、仲良くしようぜ! だけどお前、俺に借りがあるのは忘れんなよ。ここじゃ俺の方が先輩だからな!!」

 なにも言わせないうちに、茶会のテーブルへと引っ張ってゆかれる。最初に俺の顔を覗き込んでいた娘が俺の目の前に山盛りのケーキやらなにやらを積み上げた。

「いっぱい血を流したから、お腹も空いたでしょ。たくさん食べてね」

 その強烈すぎる甘い匂いに、食べる前から胸焼けしそうだ。

「……一体、ここはどーなってるんだっっ!?」
「ここは、ここよ。伯爵のペットショップ、『伯爵D』。扱うペットは犬猫からテッちゃんやあんたみたいな妖獣・霊獣までなんでもあり」
「難しく考える事はないさ。伯爵は人間嫌いだけど、俺達みたいなのには優しいから。今夜だって、お前の仲間を呼ぶ声を聞いて捜しに出かけたんだし」

 昔みたいに月に向かって吼えた訳じゃない。だけど、この人間たちの密林の中、いつも胸の中では叫んでいた。仲間に、あいつらに逢いたいと!

 その俺の胸の中の叫びを、聞き取ってくれたのか……?

「……変な所だな、ここは。だけど、今の俺には害にはならないって事か」
「うん、そう。伯爵、あんたの事気に入ったみたいだし、お店に来ないかって誘われたんでしょ」
「俺も今のところ一人だけど、ここにいれば寂しくないぜ」

 ああ、余りにも長い時が経ち過ぎた。
 奈落との一戦に巻き込まれ、殆どの仲間は殺された。奈落が消滅した後、残った仲間達を集めて細々と群れを守ってきたが、それも時の淘汰、種の衰勢。人型を取れる『妖狼』として生まれるモノが減り、生まれた時から狼の姿の仔ばかりになった。妖狼の血を引く仔達はやがて狼の群れに交わり、野生の狼としてこの国の野山を自由に駆け回るようになった。その狼達も、今はもう ――――

「どうですか、落ち着かれましたか? あなたがここに来てくださると、私としてもとても嬉しいのですが」
「伯爵……」
「もちろん、無理強いはしません。自由を束縛されるのはどんな生き物であっても許しがたい事。お互いの自由を侵害しない為の『住み分け』は必要ですが、それを侵したのは人間ですからね」

 あの娘がしきりに俺の目の前にあるケーキを食べろと催促する。いつの間にか、この店のペースに乗せられつつある気がした。

「すまん、甘いのは苦手だ」
「じゃ、肉食うか? 肉! いなくなってもどーでも良さそうな奴を一人捕まえてきてやる!!」

 あいつらを食って血気たっているのか、嬉しそうにそう饕餮が提案した。

「……人食いは、もう随分と昔に止めた。人間なんて、食ってもそう美味いものじゃないしな」
「そりゃ、食う人間を選ばないからさ。伯爵だったら、とびきり美味いはずだぜ?」

 物騒な事を言い出す饕餮を、にこにこ笑いながら伯爵は見ていた。

「あなたも、随分と長い間を生きてきた妖でしょう。これからも人間の中に紛れて、当てもなく時を過ごして行かれるのですか?」
「当てもなく、か……。そうだな、ずっと仲間を探してきたが、もうそろそろ諦めなきゃならないか。どれだけ俺が必死になっても、あいつらが追いついてくることはないってさ」
「もし宜しければ、話して頂けますか?」

 温くなった茶を淹れ変えて、伯爵はそう俺を促した。

「そんなに長い話じゃないさ。なぜか俺だけ死にはぐれたってだけの話で」
「死にはぐれた…。あなたは死んで仲間の所に行きたいと?」
「ああ、あんまりにも長い事一人だったからな。俺が死にはぐれたのは、おそらくあれのせいだろう」

 俺は気絶している間に着替えさせられた服の上に置かれた、五雷指に視線を向けた。
 先祖の霊の『加護』を受け、最後の一人になった今でもなお生き続けよと。

「俺さ、こー見えても昔は嫁もいたし、子どもも孫もいたんだぜ。俺を兄貴分と慕ってくれる子分もいた。でも、あいつら、今じゃ……」

 伯爵が立ち上がり、五雷指を手に戻ってくる。
 伯爵の手に伝わる、妖狼族の想い。

 自分たちでは行くことも叶わない、遥か先の世界へせめて誰か一人でも ――――
 滅び行く種の、それは最後の願い。

 そして、残された者の深い悲しみと ――――

「……この前いらしたお客様も、あなたと良く似たお方でしたよ。昔ご一緒だった方々を捜し続けて、待ち続けて、長い時を渡ってこられた方でした」
「俺の他に、そんな奴が……?」
「そのお客様は、無事再会を果たされました。お連れの方の一方は人間に転生されていましたけどね」
「人間に、転生……」

 今まで、頭に浮かびもしなかったその考え。
 でも、もし、そういう事が有り得るのなら ――――

 胸に希望の光が灯ったような気がした。

「人間になってても、あいつらはあいつらだよな。俺の事なんて覚えちゃいねーかもしれないが、それなら一から始めればいい。あいつらが追いついてこれないなら、俺が迎えに行けばいいんだ」
「ああ、ではウチの子になっていただくと言う訳には……」
「すまねーな。足に自信があるもんで、狭い所は嫌いでさ。そうだな、いっつもあいつらを置いてきぼりにしてたから、その報いだな。今度は、一緒に歩いてみるか」

 そろそろ夜明け。
 窓越しに、まだ眠っているような街並みを見下ろす。
 大都会の高層ビルの黒い影が天と地を繋ぎ、隠された地平線に朝の光が差し始める。

「行ってしまうんですね」
「世話になったな、伯爵。あんた、得体が知れないし、物騒だし、危険な奴だって感じてるけど、でもここはなんだか居心地良かったぜ」

 手際が良かったのか、傷は塞がりつつある。手当ての為に着せられた着物のような衣を脱ぎ捨て、銃弾の跡のある自分の服に着替えた。自分が立っている側の窓に手をかける。

「それは、よございました。私どもはいつでも次のご来店をお持ち申し上げておりますよ」
「ああ、またいつかその時が来たらな。じゃ、あばよ!!」
「あっ、最後にお名前を!」

 開け放した窓から身を躍らせ、朝の大気の中を羽根のあるもののように駈けてゆく。朝日の中の草原を駈けて行くように。

「俺の名は、鋼牙! 妖狼族の若頭だ!!」

 覇気に満ちたその声を残し、旋風のように妖狼族の若頭は駈け去っていった。


  * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ふぁぁ〜と大きなあくびをしながらポンちゃんが一言つぶやく。

「最近の伯爵って振られたばかりね」
「そんな…、ぐっさり言わなくても……」

 心なしか気落ちしている風な伯爵を、店の子たちが取り囲む。

「大丈夫、俺達がいつでも側にいてやるからさ!」
「それにあいつも、またなって」

 鋼牙が開け放した窓を閉め、カーテンを引き直す。

「一匹狼ですからね、彼は。ええ、それにいつか捜していた仲間と一緒に、この店を訪ねて来てくれる事を信じていますし」

 伯爵も小さなあくびを噛み殺しながら、自分の寝室へと向かう。
 他の夜更かしをした子たちもそれぞれ、自分の巣へと戻る。

「済みません、誰か臨時休業の札をかけてきてくれませんか。睡眠不足は美容の大敵、万病のもとですし」

 朝、すっかり日が昇りきってからペットショップは眠りについた。
 明るい朝の光の中を駈けて行く、あの狼の姿を思い浮かべながら ――――


【完】
2008.10.22





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