(14) 別府北浜(基点) 
位置は菓子屋「塩月堂」前、流川通りと国道の交差点から撮る(左写真)。ここを基点に浜脇、田野口両村入会の向浜に向けて仕越測量を行う。測量日記には「別府村北浜から制札まで打上げ二町三十一間二尺(約280M)」とある。
白い車の駐車場所が塩月堂。直進すれば制札あり 直進すれば、国道、海。この間の海が埋立られた?

(15) 制 札 
制札は流川中町の角にあり、幕府の制札を掲げ高札場ともいう。昭和12年、市は伊能測量史跡の標木を設置(現在は標石。別府市の史跡保護に対する意識は高い)。制札から西二町に庄屋(堀家)宅があったが、忠敬が止宿したかは不明。測量日記には「本陣別府村庄屋作左衛門(高倉姓。元々の庄屋堀家の代役)病気につき亭主役を小坂村庄屋曽右衛門(高倉姓。作左衛門の息子)が勤める。別宿煙草屋市郎兵衛、、、」とある。

  直進(南)すれば、別宿煙草屋前を経て浜脇へ   西(写真では直進)二町に庄屋堀家の居宅あり

(16) 別府止宿 高倉家居宅跡 と煙草屋跡 
測量隊来別時、別府村庄屋を高倉家が兼帯(兼務)していた。測量隊は堀家(元々の庄屋)ではなく、制札から東二町にあった高倉家(兼帯庄屋)居宅に宿泊したのでないかと考える。煙草屋は、現在の児童館(右写真 末広町 昭和3年電話局として建設、県内最古の鉄筋コンクリート製の建物)付近を中心に広大な敷地を有していた。忠敬の測量隊は庄屋宅と煙草屋(荒金姓 横灘一の分限者)宅に分かれて宿泊。翌文化8年正月4日にも煙草屋に止宿。
流川通りに面した高倉家居宅跡付近。高崎山も見える。 右児童館付近にあった煙草屋居宅跡。直進すれば浜脇へ至る。

(17)妙見浜、妙見宮 
 現新日本製鉄中門付近(大分市向原沖)。沖の浜「沖印」から測量をはじめた後手は、ここで昼食をとり先手に引き継ぐ。測量日記には「萩原村、島原御預御料所原村妙見浜まで測る。沖浜町より妙見浜まで一里十七町二十五間一尺(約5.8K)、妙見拝殿にて中食、、、」とある。現在、妙見社(祠)はないが、江戸後期に書かれた「高松御役所記録(大分、速見両郡御料村々明細)」原村の項に、吉祥寺とならんで妙見、貴船、住吉などの記載あり。明治9年、当地近辺にあった妙見社、天神社、住吉社、貴船社を豊原神社に合祀したという。
 中門からやや南東に行った所に、臨済宗東福寺派「霊鷲山吉祥寺」がある。和尚の照玄氏は偶然にも高校の同級生。創設時は別府(楽天地付近)にあったが、豊薩戦争で荒廃し天正年間、別府から檀門徒を引き連れ、当地に再興したというこの寺の由来も謎にみちている。
 吉祥寺の北側、道路が従前の海岸線、左樹木の向こうは埋立地   臨済宗東福寺派「霊鷲山吉祥寺」 

(18)三佐村 禅家海岳寺(海潮寺) 
妙見の浜(向原沖)から測量をはじめた先手は、海原川(現乙津川 日記では川幅八十一間)を渡り、三佐村を周回し当寺で昼食をとる。従前、来たときは区画整理中であったが、現在はきちんと整備されている。付近に尋声寺、円光寺がある。


(19) 鶴崎止宿 本陣 
 三軒町和泉屋八右衛門宅(河合姓 現鶴崎3丁目)。現在は、デイサービスセンタとなっている敷地に記念碑あり。近くに脇宿となった平野屋治右衛門(挟間姓)の居宅もあり。手前側(写真左)に進むと、白滝川(現大野川)へ至る。

(20) 熊本領 志村揚場 
 大野川(日記では白滝川)を挟み、対岸が志村揚場。ここに「渡し場」があったという。日記では「川向こう志村揚場より初め迫村、つる村、、、、まで測る」とある。
     左側に鶴崎橋が見える 写真左と同位置から反対方向を撮る。直進すると本陣がある

(21) 金越峠(鹿鳴越峠) 
 文化八年正月6日、小浦村を出立した測量隊は厳寒小雪交じりの中峠を越える。中食は峠を過ぎて徳田原庄屋宅でとり、日出藩の代官より酒肴のもてなしを受ける。先手、後手にも属さなかった坂部貞兵衛も先行してここで待つ。峠からの眺望はまったくきかず。
山道中央に腐朽した木杭(鹿鳴越峠と記す) 峠を山香方面に僅かに過ぎた所から。守江湾も見える

(22) 長石(銭瓶石) 
 測量日記に「先手、大分郡府内領田浦村、速見郡島原御預所浜脇村長石(銭瓶石)より初め、、、」とある。測量隊は「追分一印」から城の腰(府中より弐里の標石あり)、高崎山登山口駐車場を経て峠に着く。標高約335Mで、銭瓶街道の頂点ではない。最近、銭瓶石の背後にあった小丘陵が、取り壊されつつあり心配である。
   中央に銭瓶石、左に行けば、生石、神崎へ         峠から高崎山を望む

(23)大分市神崎&白木の(半)自然海岸 
             半自然海岸                           自然海岸       

(24)神崎村 一向宗西派教高寺(教尊寺) 
 鶴崎(志村揚場)から大在、坂ノ市の海岸線を測量し、当寺に宿泊する。海岸線から僅かに陸地に入った所にあり、細川候も参勤の時、ここに立ち寄るという。
    本堂の裏手に立派な書院がある 正面コンクリートの坂を登ると直ぐ教尊寺、海岸には白、黒石が散在

(25)大志生木村字江ノ脇の浜 
 先手、後手の引継ぎ場所。後手(忠敬ら)はこの浜から舟に乗り佐賀関上浦に向かう。測量日記では、「神崎村出立、、、、大志生木村、小志生木村まで測る。神崎村より一里三十六間二尺、それより乗船、佐賀郷関村に至り、、、、。先手、小志生木村字江ノ脇(大志生木村の間違いでは)より、初め、、、」とある。
    江ノ脇の浜。正面は弁天鼻と夫婦岩     江ノ脇浜の侵食を受けた砂崖

(26)小浦村止宿庄屋弾之丞(脇屋)宅跡と小坂村庄屋高倉家居宅 
文化8年1月5日、別府制札より街道筋の測量を初めた忠敬らは、亀川村を経て小浦村庄屋弾之丞宅へ泊まる。江上川を挟んで対岸に、小坂村庄屋高倉曽右衛門の屋敷(生家)がある。曽右衛門は前日4日、測量隊の別府における宿泊先の亭主役。
    脇屋家居宅跡には石碑が建つ。    高倉家居宅、石垣を組んで屋敷が一段高い。