(14) 別府北浜(基点) |
位置は菓子屋「塩月堂」前、流川通りと国道の交差点から撮る(左写真)。ここを基点に浜脇、田野口両村入会の向浜に向けて仕越測量を行う。測量日記には「別府村北浜から制札まで打上げ二町三十一間二尺(約280M)」とある。 |
白い車の駐車場所が塩月堂。直進すれば制札あり | 直進すれば、国道、海。この間の海が埋立られた? |
直進(南)すれば、別宿煙草屋前を経て浜脇へ | 西(写真では直進)二町に庄屋堀家の居宅あり |
流川通りに面した高倉家居宅跡付近。高崎山も見える。 | 右児童館付近にあった煙草屋居宅跡。直進すれば浜脇へ至る。 |
吉祥寺の北側、道路が従前の海岸線、左樹木の向こうは埋立地 | 臨済宗東福寺派「霊鷲山吉祥寺」 |
(18)三佐村 禅家海岳寺(海潮寺) |
妙見の浜(向原沖)から測量をはじめた先手は、海原川(現乙津川 日記では川幅八十一間)を渡り、三佐村を周回し当寺で昼食をとる。従前、来たときは区画整理中であったが、現在はきちんと整備されている。付近に尋声寺、円光寺がある。 |
(19) 鶴崎止宿 本陣 |
三軒町和泉屋八右衛門宅(河合姓 現鶴崎3丁目)。現在は、デイサービスセンタとなっている敷地に記念碑あり。近くに脇宿となった平野屋治右衛門(挟間姓)の居宅もあり。手前側(写真左)に進むと、白滝川(現大野川)へ至る。 |
(20) 熊本領 志村揚場 |
大野川(日記では白滝川)を挟み、対岸が志村揚場。ここに「渡し場」があったという。日記では「川向こう志村揚場より初め迫村、つる村、、、、まで測る」とある。 |
左側に鶴崎橋が見える | 写真左と同位置から反対方向を撮る。直進すると本陣がある |
(21) 金越峠(鹿鳴越峠) |
文化八年正月6日、小浦村を出立した測量隊は厳寒小雪交じりの中峠を越える。中食は峠を過ぎて徳田原庄屋宅でとり、日出藩の代官より酒肴のもてなしを受ける。先手、後手にも属さなかった坂部貞兵衛も先行してここで待つ。峠からの眺望はまったくきかず。 |
山道中央に腐朽した木杭(鹿鳴越峠と記す) | 峠を山香方面に僅かに過ぎた所から。守江湾も見える |
(22) 長石(銭瓶石) |
測量日記に「先手、大分郡府内領田浦村、速見郡島原御預所浜脇村長石(銭瓶石)より初め、、、」とある。測量隊は「追分一印」から城の腰(府中より弐里の標石あり)、高崎山登山口駐車場を経て峠に着く。標高約335Mで、銭瓶街道の頂点ではない。最近、銭瓶石の背後にあった小丘陵が、取り壊されつつあり心配である。 |
中央に銭瓶石、左に行けば、生石、神崎へ | 峠から高崎山を望む |
(23)大分市神崎&白木の(半)自然海岸 |
半自然海岸 | 自然海岸 |
(24)神崎村 一向宗西派教高寺(教尊寺) |
鶴崎(志村揚場)から大在、坂ノ市の海岸線を測量し、当寺に宿泊する。海岸線から僅かに陸地に入った所にあり、細川候も参勤の時、ここに立ち寄るという。 |
本堂の裏手に立派な書院がある | 正面コンクリートの坂を登ると直ぐ教尊寺、海岸には白、黒石が散在 |
(25)大志生木村字江ノ脇の浜 |
先手、後手の引継ぎ場所。後手(忠敬ら)はこの浜から舟に乗り佐賀関上浦に向かう。測量日記では、「神崎村出立、、、、大志生木村、小志生木村まで測る。神崎村より一里三十六間二尺、それより乗船、佐賀郷関村に至り、、、、。先手、小志生木村字江ノ脇(大志生木村の間違いでは)より、初め、、、」とある。 |
江ノ脇の浜。正面は弁天鼻と夫婦岩 | 江ノ脇浜の侵食を受けた砂崖 |
(26)小浦村止宿庄屋弾之丞(脇屋)宅跡と小坂村庄屋高倉家居宅 |
文化8年1月5日、別府制札より街道筋の測量を初めた忠敬らは、亀川村を経て小浦村庄屋弾之丞宅へ泊まる。江上川を挟んで対岸に、小坂村庄屋高倉曽右衛門の屋敷(生家)がある。曽右衛門は前日4日、測量隊の別府における宿泊先の亭主役。 |
脇屋家居宅跡には石碑が建つ。 | 高倉家居宅、石垣を組んで屋敷が一段高い。 |