伊能測量時の事跡(別府湾岸)

 別府湾南岸の測量軌跡(伊能大図)   杵築周辺の測量軌跡(伊能大図)       

1.沖ノ浜「沖印」跡 
文化7(1810)年2月12日、別府から海岸線を測量し、当該地(横断歩道付近か)に目印となる木杭(沖印)を残す。さらに、この道を南に測量し、威徳寺前、仙石橋、堀川口門を経て府内城下に入り橋本屋に宿泊。翌日、ここ沖印から弁天に向け海岸線を測量する。
また、府内藩の「由原迄測量御手当一件」(文化8年正月3日)には、「…沖ノ濱番所前より測量相始ル。右場所調置候事…」とあり、一年前設置の沖印杭がきちんと管理されていた事が判る。
鳥居は大分市浜町恵美須神社(測量時は、現在地よりまだ南に鎮座)。神社の北側ゴルフ場との境が測量当時の海岸線。現在の海岸は、ここから約100M北へ行った所にある。
私の実家は、恵美須神社(産土神)のすぐ西側字「七本木」にある。この場所に何とか測量記念の石標を建設したい。
  陸側から撮る。約100M先は海(住吉泊地) 海側から撮る。この道を真直ぐ南に行くと、威徳寺に至る
 「蛇切り」と呼んでいた、スサノオノ尊の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治(平成16年恵美須寿神社夏祭り)
平成18年7月10日 恵比寿神社の神事、11時から開始(春日神社の神職か)、30分程度で終了する。今年は、「大人みこし」も15年振りに出御したという。
昔は、14時から神事開始、まず拝殿の神輿に御霊(ミタマ)を遷す儀式がある。この奉遷の儀には、「カイサシ」と呼ばれる12、13歳の子供達によって執り行われる。9名の「カイサシ」の子供達は、儀式に先立って宮総代と共に、浜で「シオカキ」(みそぎ)をしなければならなかった。神事終了後、住吉神社にお参り。その後、「渡り拍子」、「チキリン」を先頭に「高張提灯」に囲まれて神輿が町内を練り歩く。夕方、神社北側勢家の浜から神輿を舟に乗せ、弁天社(又は火王宮)へ海上渡御。即日に還御。恐々謹言。

恵美須神社(恵比須、蛭子)の初見
亨和二年(1802)7月の雨乞いに関する府内藩日記です。竜宮石とは、高崎山下水際の祠付近にあった。
「…勢家村ノ儀ハ、今四日夜ヨリ、六日昼迄、春日宮於神前、雨乞御祈祷相勤、六日竜宮石ニ船ニテ罷越、罷帰候節、村中渡拍子ニテ相廻リ、沖濱蛭子宮、住吉宮神前ニテ、雨乞歌囃子仕申度、六日若風ニテモ之有リ候テ、竜宮石ヘ参難シ節ハ…」
H19.7.8(日)恵美須神社の神事次第
11時 神事(春日神社から神職来る)
14時 子供神輿出御
18時 大人神輿出御
21時 同 神輿還御(春日神社から神職来る)
*祭礼は7/10だが休日でないと、担ぎ手が見つからず

2.字「下り松」
文化7年2月12日、別府/大分間における先手の測量開始場所(即ち後手の測量終了場所)。先手はここから「沖印」を経て府内城下まで測量。右手、人家のある所(写真左)が白木村字「下り松」。
         別府側から撮る。     大分側から撮る。右端が鯨崎の鼻

(3) 伊能測量時、高崎山下の海岸線を越えられたか?                                


(4) 勢家町基点(勢家三差路)
 文化7年2月12日、三差路を直進(左写真では左に進み)し、府内城下に入る。翌年正月は、沖印から測量をはじめ三差路を右に曲がり(左写真では直進し)駄原、生石の街道筋を測量。
        前方は春日神社の杜 真っ直ぐ進むと仙石橋を経て城下。右に瓜生山威徳寺

(5) 追分「一印」跡 
 文化8年正月、府内城下に逗留した測量隊は、追分「一印」を右に曲がり由原神社北裏を過ぎ、田ノ浦村上城(うわじょう 現在の城の腰付近 、下城もあり)、現高崎山登山口駐車場、銭瓶峠を経て、別府に至る。直進(写真では左)すれば、由原神社の楼門前に至る。
由原神社参詣道で、「四の鳥居」があったが現在は無い      正面に高崎山が見える

(6) 堀川口門跡 
 文化8年正月の測量は、この門から出て勢家、駄原、生石の街道筋を測る。クランク型になっている点に注目、右手に堀川の舟だまりがあった。(左写真)
突き当たりを左に曲がると仙石橋(今はなし) 手前住吉川、右住吉神社、左は広度山西応寺の山門

(7) 橋本屋跡 
 竹町アーケード商店街。家具の旗のあるあたりに旧桜町橋本屋。「府内城下桜町止宿橋本屋八佐衛門、家作佳しく大に広し、酒造家、、、」と測量日記にある。文化8年正月にも橋本屋に止宿する。止宿より搦手門(府内城)まで一町半許。
    真っ直ぐ進むと府内城内堀搦手門    真っ直ぐ進むと笠和口門

(8)「由原神社お旅所」と「火王宮」
 「毎年8月14日由原宮即ち八幡宮この村(生石)に行幸あり、数日鎮座、放生会あり、、、」と測量日記にある。祓川(測量日記では寄藻川、川幅六間)に掛かる橋からお旅所を撮る(左写真)。火王宮(赤い屋根)はお旅所の境内にある。
左から火王宮、善神王様(樹木の所)、八幡宮、松坂社      祓川と火王宮(赤い屋根)

(9) 笠結島 
 伊能測量では、「笠結島の脇浜、仮小屋掛けにて中食、、、」とある。明治の中頃、カンタン旧港の埋立が実施されるまでは、本当の島であった。頂きには、名にし負う老松(豊府聞書)は既に無く雑木のみ。マリーナ等の建物が無ければ、背景に仏崎、高崎山が見えるか。(右側写真)

(10) 大洲渡海場所 
 沖印から弁天島北岸を測量し、この漁港付近から大洲(今津留)へ渡海。日記では、「勢家町由布川(川幅100間=約180M)を渡る」とある。川幅は現在、180M以上である。渡海当時は満潮であったのに、何故か住吉川渡河の記述は無い。当時、住吉川河口は入海で、川の態をなしてなかったか?
    測量時、漁港はなし  大分川河口、遠くに杵築の山並み

(11) 六本松「六印」 
 測量日記では、「下郡村字六本松に六印(木杭)を残す。別手繋ぎ(接続の目印)の為なり」。この場所は、府内から鶴崎、佐賀関方面(左側の道)と竹田、肥後方面(右側の道)へ向かう道の分岐点。右手のこんもりした林の中に、石碑あり。裏面の刻文に、天明元年、、、本宮山常妙寺、瑞相山本光寺(江戸期は市内都町にあって、ともに日蓮宗)、、、とある。

(12)坊ヶ小路の渡し 
 文化7年12月28日、伊能測量隊は滝尾橋のやや下流付近で大分川を渡り、坊ヶ小路、東新町を経て府内城下に入る。日記では「由布川幅54間(約100M)」とある。 右側写真は錦町側から「坊ヶ小路の渡し」を見る。渡しは滝尾橋のやや下流にあったという。
滝尾橋の上流側、遠くに上野丘陵、対岸では中世府内の町を発掘調査中。 滝尾橋下流の渡し、錦町から見る。乙津川の取水口、遠くに明野、下郡の丘陵。

(13)浜脇村、田野口村入会向浜(当日の測量終点) 
 前方、信号機付近が府内藩(大分郡)と天領(速見郡)の境、両郡橋(字鳴川)。文化7年2月11日、日出町豊岡頭成から別府北浜を通り過ぎ、当地まで測量する。日記では「浜脇村、田野口村入会向浜まで仕越測」とある。翌日は「浜脇村、田野口村入会より初め、大分郡府内領田浦村、四極山(高崎山)麓を通り、字鳴川、、、、」とある。 同位置から高崎山を見上げる(写真右)