伊能測量時の事跡(別府湾岸)
別府湾南岸の測量軌跡(伊能大図) 杵築周辺の測量軌跡(伊能大図)
2.字「下り松」 |
文化7年2月12日、別府/大分間における先手の測量開始場所(即ち後手の測量終了場所)。先手はここから「沖印」を経て府内城下まで測量。右手、人家のある所(写真左)が白木村字「下り松」。 |
別府側から撮る。 | 大分側から撮る。右端が鯨崎の鼻 |
(4) 勢家町基点(勢家三差路) |
文化7年2月12日、三差路を直進(左写真では左に進み)し、府内城下に入る。翌年正月は、沖印から測量をはじめ三差路を右に曲がり(左写真では直進し)駄原、生石の街道筋を測量。 |
前方は春日神社の杜 | 真っ直ぐ進むと仙石橋を経て城下。右に瓜生山威徳寺 |
(5) 追分「一印」跡 |
文化8年正月、府内城下に逗留した測量隊は、追分「一印」を右に曲がり由原神社北裏を過ぎ、田ノ浦村上城(うわじょう 現在の城の腰付近 、下城もあり)、現高崎山登山口駐車場、銭瓶峠を経て、別府に至る。直進(写真では左)すれば、由原神社の楼門前に至る。 |
由原神社参詣道で、「四の鳥居」があったが現在は無い | 正面に高崎山が見える |
(6) 堀川口門跡 |
文化8年正月の測量は、この門から出て勢家、駄原、生石の街道筋を測る。クランク型になっている点に注目、右手に堀川の舟だまりがあった。(左写真) |
突き当たりを左に曲がると仙石橋(今はなし) | 手前住吉川、右住吉神社、左は広度山西応寺の山門 |
(7) 橋本屋跡 |
竹町アーケード商店街。家具の旗のあるあたりに旧桜町橋本屋。「府内城下桜町止宿橋本屋八佐衛門、家作佳しく大に広し、酒造家、、、」と測量日記にある。文化8年正月にも橋本屋に止宿する。止宿より搦手門(府内城)まで一町半許。 |
真っ直ぐ進むと府内城内堀搦手門 | 真っ直ぐ進むと笠和口門 |
(8)「由原神社お旅所」と「火王宮」 |
「毎年8月14日由原宮即ち八幡宮この村(生石)に行幸あり、数日鎮座、放生会あり、、、」と測量日記にある。祓川(測量日記では寄藻川、川幅六間)に掛かる橋からお旅所を撮る(左写真)。火王宮(赤い屋根)はお旅所の境内にある。 |
左から火王宮、善神王様(樹木の所)、八幡宮、松坂社 | 祓川と火王宮(赤い屋根) |
(9) 笠結島 |
伊能測量では、「笠結島の脇浜、仮小屋掛けにて中食、、、」とある。明治の中頃、カンタン旧港の埋立が実施されるまでは、本当の島であった。頂きには、名にし負う老松(豊府聞書)は既に無く雑木のみ。マリーナ等の建物が無ければ、背景に仏崎、高崎山が見えるか。(右側写真) |
(10) 大洲渡海場所 |
沖印から弁天島北岸を測量し、この漁港付近から大洲(今津留)へ渡海。日記では、「勢家町由布川(川幅100間=約180M)を渡る」とある。川幅は現在、180M以上である。渡海当時は満潮であったのに、何故か住吉川渡河の記述は無い。当時、住吉川河口は入海で、川の態をなしてなかったか? |
測量時、漁港はなし | 大分川河口、遠くに杵築の山並み |
(11) 六本松「六印」 |
測量日記では、「下郡村字六本松に六印(木杭)を残す。別手繋ぎ(接続の目印)の為なり」。この場所は、府内から鶴崎、佐賀関方面(左側の道)と竹田、肥後方面(右側の道)へ向かう道の分岐点。右手のこんもりした林の中に、石碑あり。裏面の刻文に、天明元年、、、本宮山常妙寺、瑞相山本光寺(江戸期は市内都町にあって、ともに日蓮宗)、、、とある。 |
(12)坊ヶ小路の渡し |
文化7年12月28日、伊能測量隊は滝尾橋のやや下流付近で大分川を渡り、坊ヶ小路、東新町を経て府内城下に入る。日記では「由布川幅54間(約100M)」とある。 右側写真は錦町側から「坊ヶ小路の渡し」を見る。渡しは滝尾橋のやや下流にあったという。 |
滝尾橋の上流側、遠くに上野丘陵、対岸では中世府内の町を発掘調査中。 | 滝尾橋下流の渡し、錦町から見る。乙津川の取水口、遠くに明野、下郡の丘陵。 |