たちばな 3
イラスト:かおる様
和歌作成:まんしょ様
作文:SEPIA

その日の夕方申の刻(午後4時)からの夕食の時に、佐為はか細い童の声を聞いた。
「もし、佐為の君様、このようなお時間に申し訳ございません。二条の莢子様からの使いの者でございます。」
佐為は急いで立ち上がると、転がる程の勢いで廊下に飛び出した。そのぬれ縁に申し訳なさそうな童が立っている。
佐為の姿を見ると、急いでお辞儀をし、恭しく文を差し出した。

佐為もそれを恭しく受け取ると、優しく童に声を掛けた。
「確かに頂きました。莢子様によろしくお伝えください。」
「このようなお時間に失礼いたしました。」

佐為は童を見送るのも忘れて、折り畳まれた文を開いてみた。微かに蘭の花の香りがする。

たちばなの 色移ろひて ほととぎす 鳴きやみぬこそ 秋といふらめ

(その橘だって間もなく色褪せてしまいます。そうしたらほととぎすも鳴きやんでしまうでしょう。あなたはそうおっしゃるけど、きっとすぐに飽きてしまうわ。)

今度いらっしゃらなくなったその時には、もう飽きられたものと思って二度とお会いしませんよ、とでもいうのであろうか?あの勝ち気な碁を思い出させるようなこの歌を、佐為は嬉しそうに眺めた。とにかく会ってはもらえそうだ。

今度は玄関から上がらずに、いきなり莢子様のお部屋のぬれ縁から訪ねてみようか?今までの訪問は太政大臣から頼まれて通ったものであったが、これからは自分の意志で通いたい。とすればお庭からいきなりお部屋を訪ねてもいいのではないだろうか?本当に来たくてきているのだ、と伝えるためにも。

明日からもまた帝のお相手をし、また碁の挑戦を受ける日々が来る。気の抜けない碁も自分が研ぎすまされる実感を得る事ができて、大変楽しいものだ。だが、あのお屋敷で打つ碁はいったいなんだろう?誘うような一手も、怒ったような一手も、一手一手が愛おしい。神の一手ではないけれど、まるで天女の一手のよう…。

「佐為。」
伊周は探るような目で佐為を見つめていた。
「なんでもありません。」
佐為はさりげなく受け取った文を狩衣の内側に隠し、帯に挟み込んだ。


翌日、佐為は清涼殿でのお務めの後、急いで二条のお屋敷に訪れる予定だった。余り遅い時間になるとあらぬ誤解を受けると思ったからだ。特に今日はお庭を通っていきなりお部屋の前のぬれ縁を訪問しようと考えているのだ。
「佐為、今日も二条のお屋敷に行かれるのでしょう?」
清涼殿を出ようとしていた佐為は後ろから急に声をかけられて、どっきりとした。
「伊周…。」
「よろしければ私が仲人になりましょうか?」
「伊周!な、なにを…。」
佐為は真っ赤になった。
「そんな驚かれる事ではないでしょう。女性の元を訪れる時は仲人をたてるのは常識ですし、たてないのは失礼に当たります。私でよければいつでもお引き受けいたしますよ。」
「わ、私はそんなつもりはありません。それに…、もう来ないでくれと昨日…。」
「あ…。」
伊周は申し訳なさそうに佐為の顔を見た。
「私の思い過ごしです。お気を悪く為さらずに。昨日御文を受け取られたようだったのでてっきり…。」
佐為は何も言わずに伊周に微笑んだ。

そう、そんな事は考えてみた事もなかった。ただ自分はあの人と碁が打ちたいだけなのだ。あの人の一手一手に自分が癒される気持ちがする。どんなに挑戦的な手であっても、甘い香りとともに自分の心を震わせるのだ。色恋沙汰とは違う何かだと自分では思う。だが本当にそうだろうか?

ともかく佐為は今すぐあの姫君に正式な手順を踏んで求婚する意志はなかった。

こうして大勢の人と碁を打つ機会が増え、いま碁が楽しくてならないのだ。帝の取り巻きの碁打ちの中ではまだまだ歳も若く、回りは強敵ばかりだが、一局一局に自分が研ぎすまされ、どんどん強くなっているのが手にとる様にわかる。

それに、あの方は今をときめく太政大臣の姫様だ。おそらくしばらく後に入内され、帝の妃となられるであろうお方。だが自分は藤原姓を名のっているものの、所詮正妻の子ではなく、出世はほとんど見込めまい。せいぜいこうして碁の腕をあげて、碁打ちとして認められていくしかないのだ。太政大臣のお眼鏡に叶うとは到底思えない。

それにあの方はこの大童である自分の姿を見てどう思われるだろうか?髷も結わず女性の様に髪を伸ばしているこの自分の姿を、御存知なのだろうか?

そんな事を考えているうち、牛車に乗った佐為はあっという間に二条のお屋敷についた。そして何度か通ってだいたいの場所が分かっているお屋敷のお庭を、ゆっくりと横切っていった。

昨日と同じたちばなの花が、甘い香りを漂わせている。昨日はこの花の前でしばらく待たされた。だが今日はいきなり訪問するのだ。いったいいつもはどんなお部屋なのだろう?香はどんな香りを炊き込めていらっしゃるのか?御簾は降ろされているのだろうか?挫けそうになる気持ちを後押しする様に、ほととぎすが今日も鳴いた。そう、あの方はほととぎすの訪問をまっていて下さるとおっしゃっていたではないか。

見事な鯉が泳いでいるお池の前を通り抜けたとき、優雅な琴の調べが誘う様に流れてきたのに気がついた。佐為はついに莢子様の部屋の前まで来た。その琴の音は莢子様の部屋から聞こえてくる。甘い白檀の香りとともに琴の音が心をくすぐる。今まで一度もなかった事だが、御簾が上まで巻き上げられており、見事な調度が並べられた莢子様のお部屋はそのぬれ縁から一部が伺い知れた。几帳で隔てられた向こうから莢子様のものと思われる長い黒髪が覗いている。佐為は腰に挟み込んでいた龍笛を取り出し、唇を近付けた。

澄んだ龍笛の音が流れた。
「あ…。」
小さな驚きの声が部屋の中から漏れ聞こえた。琴の音は止まらなかった。だが几帳の向こうから急いでいつもの女房の如月が飛び出してきた。
「まあ、佐為の君様!」
かなり驚いた様子で如月が姫様に聞こえる様に佐為の名前を読んだ。
「突然の御無礼をお許しください。昨日のお歌を拝見し、いても立ってもいられず早々に参上いたしました。」
少々言い訳がましく佐為は女房にそう申し上げた。

佐為の名前を聞いて、琴の音はいっそう甘くなった。佐為は自分を歓迎してくれているような気持ちになり、思わず顔をほころばせた。
「このままお待ちくださいな。」
女房は急いで姫様に取次ぎに行った。

莢子様の琴の音はやまなかった。そして佐為の龍笛の音も止まらなかった。しばらくして曲は静かに止まった。そして佐為は初めて莢子の部屋に招かれた。もちろん2人の間には几帳で隔てられてはいるものの、求婚者でもない佐為が部屋に招かれるなど奇蹟に近いことだ。
「莢子様はいつの日か貴方様と差し向いで碁を打ちたいとおっしゃっています。」
少し困惑した面持ちで茵(しとね)に座った佐為に如月は声を掛けた。
「はい、ぜひ…。」
佐為は思わず几帳のほつれ目に目をやった。これを間に挟んでも相手の様子が伺える様に、真中あたりがほつれているのだ。そこから垣間見れる莢子様は、扇で顔半分を隠されて、愛くるしい目だけがちらりと伺い見る事ができた。

まもなく2人の前に別々に碁盤が運び込まれた。今までより一歩近づいたとはいえ、まだ差し向いで打つ事は出来ない。いつの日か相手の表情を読み、相手の一手にその呼吸を感じ、共に高めあう事の喜びを共有したい。そんな日が来るのだろうか?

たちばなの香りと白檀の香りが入り交じり、不思議と気持ちを鎮めてくれる。今自分がどこにいるのかもよくわからなくなり、ただ目の前の碁盤だけが自分の全てになる。

また今日の碁は今までと違う。変に自分を誘おうとする訳ではなく、かといって昨日の様に勝ちに行こうとする訳でもない。初めて本当の莢子様に出会ったような気持ちになった。

「また、必ず参ります。」
帰り際、佐為は几帳越しに直接莢子様にそう告げると、名残惜しそうに何度も振り向きながら莢子の部屋を後にした。