佐為は屋敷に戻り、急いで庭に出た。佐為の屋敷にも橘の花が咲きその甘い香りが鼻をくすぐる。
「莢子様…。」
佐為はそうっと橘の木に触れた。
前に打った碁も大変楽しくはあったが、今回のあの碁の何と魅力的だった事か!このところたくさんの人と打つ機会に恵まれて、数多くの人と打って来たが、今回の莢子様とのあの一局は忘れられないものになりそうだった。あの方と一緒に『神の一手』を極めたい、一緒に歩いて行きたい、そう思えるような一局だった。
きっとあの姫は幼い頃碁を覚えられ、それ以来自分の様に太政大臣の父君が誘ったたくさんの相手と何局も打って来たのであろう。多くの手を御存知で、自分よりも碁の経験がたくさんおありに見受けられた。伊周はさほどお強くは無いと言っていたが、それはこの前のような本気の碁ではなかったからでは無いか。あんなに男勝りの荒っぽい碁を打つ姫なんて、他にも聞いた事がない。
あの方はそれをずっと隠していらっしゃったのだ。
不如帰が鳴いた。
佐為は急いで女房に書の準備をさせ、ぬれ縁に腰掛けた。
たちばなの 花の香りに さそはれて 山ほととぎす 思ひてぞ鳴く
(お屋敷であんなにも香り高く咲き誇っている橘のような貴女を、無粋なほととぎすは思い出しては鳴かずにはいられません。)
佐為はその文を急ぎ莢子様に届けさせた。もうこないでくれ、と言うあの言葉をこれで翻して下さるだろうか?不如帰がまるで後押しするかの様にもう一度鳴いた。
佐為は莢子様からの返事を待つのももどかしく、所在なくうろうろしていたが、心を落ち着かせるために碁盤を取り出して、前に座った。
ぱち…。
佐為は先ほどの莢子との一局を並べ始めた。
「佐為、いらっしゃいますか?」
ふいに佐為のいる部屋のぬれ縁から伊周の声がした。
女房が伊周の訪れを告げに来たので、佐為はここに通す様に女房に告げた。
「おお、佐為。今日はのんびりしておるのですね。昨日はすごかったではないですか。」
伊周は手に酒を持ち、佐為の碁の大会の優勝を祝いに来たのだ。
「ありがとうございます。伊周。」
佐為は嬉しそうに笑った。
伊周はふと佐為の手許を見た。
「ほう、早速碁のお勉強ですか?それはどなたとの一局です?なかなかの腕とお見受けしますが、今回の大会で対戦された方ですか?」
「いいえ…。」
「ではこのところ増えて来た、貴方に挑戦為さった公達の誰かですかね?」
「いいえ…。」
「ふん…ではどなただろう?私も打った事があるでしょうか?」
「ええ。前打った事があるとおっしゃってましたよ。」
佐為はそのままその一局を並べ続けた。
「貴方は腕をあげましたね。貴方の踏み込みに相手がたじろいでいるではありませんか。でも、この方も頑張りましたね。貴方にたいしてこんなに強気に…。いったいどなたなんです、もったいぶらずに教えて下さい。」
「…莢子様です。」
佐為は少し躊躇った後にそう答えた。
「貴方は莢子様お相手に、こんな碁を打たれるのですか?」
呆れ果てた様に伊周は言った。
「とおっしゃいますと?」
「我々はいつも莢子様がお相手の時は、それこそ腫れ物に触る様に碁を打ったと言うのに!これでは莢子様に勝ち目はないではありませんか。」
「真剣に打つ事が礼儀だと思いましたので…。莢子様もそれをお望みと思いましたが違うのでしょうか?」
ふと思い立った様に伊周は言った。
「ああ、そうかも知れません、佐為。確かあの日、莢子様と最後に打った時、私は明らかに手控えました。その前に訪れた時、私は莢子様のお姿を盗み見ました。あまりにお美しくてかわいかったので、次に打ちに行った時、ついつい手控えてしまったのです。その一局は莢子様がお勝ちになりましたが、それ以来です、莢子様がもう二度と打つつもりはないとおっしゃったのは!その後も何度かお屋敷に通いましたが、一度もお目通りは叶いませんでした。私の碁がお嫌いだと女房から伝え聞いたのですが、そういう事でしたか…。」
腑に落ちた顔で伊周は頷いた。自分の失策がなんだったのか、やっと気がついたのだ。
「あの方も本当に碁がお好きなんですね…。」
伊周がぽつりと言った。
「ええ。私たちと同じです。」
佐為もにっこりと笑った。
「飲みませんか、佐為。」
「ハイ、いただきます。」
佐為は女房に肴を申し付け、手に入れたばかりの塩鮭をあぶってきてもらった。
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