佐為は自分の屋敷のぬれ縁で、ぼんやりと庭を見ていた。季節はうつろい遠くの方から不如帰(ほととぎす)の声が聞こえてくる。あの蝦蟇ガエルの一件以来、噂を聞き付けた腕に覚えのある人々から佐為のところに対局の申し込みが相次ぎ、とても忙しい日々を送っていた。
帝の思いつきで大会も開かれ、昨日それの勝者になったばかりだ。蝦蟇ガエルの件は思い出したくない程に気持ち悪かったが、毎日碁が打てるこの日々は楽しくて仕方がない。しかしずっと気にかかっている事があった。
すぐにまた来ます、と答えたあのお屋敷にあれ以来行ってないのだ。もしかしたら御機嫌を損ねてしまっているのかも知れない。
「かわいい姫でした…。」
佐為は思い出してそっと微笑んだ。御簾の端から自分の姿をこっそり盗み見る様にしていた莢子(さやこ)様は、自分と目が合うと恥ずかしそうに几帳の後ろに隠れてしまわれた。想像していた以上に綺麗で可愛らしい人だった。
文でも送ってみようか…。それともこれからいきなり訪ねてみようか?
会いたいとなったら無性に会いたくなった。また一緒に碁が打ちたくなったのだ。緊張の連続であったこのところの碁に対し、ああいう気持ちが安らぐような一局もいい。
佐為は立ち上がり、ゆっくりと屋敷の中に入っていった。
「出かけます。牛車の用意を。」
佐為は莢子様のお屋敷に来ていた。突然の訪問であったため、また屋敷に入ってすぐのところでしばらく待たされた。しかしもしかしたらこのまま門前払いの可能性もある。近いうちに来るといったまますでに季節が変わってしまっているのだ。春のころには見事な藤の花が咲いていたが、すでに藤の姿はどこにもなく、目の前の大きな橘の木に今を盛りと白い花が咲き、あたりはその甘い香りで満たされていた。
そしてその香りに誘われたかの様に不如帰が鳴いている。
佐為は時も忘れてしばらくその橘に見とれていた。
もし今日お目通りが叶わなくても、また来ればよい。そんな気持ちが沸き上がってくる。この美しく咲き誇る花橘は、きっと不如帰をいつかは受け入れてくれそうな気がするのだ。
ややしばらくして、いつもの女房がしずしずとやって来た。
「佐為の君様、こちらへ。」
「御無沙汰いたしておりましたので、お目通りが叶うか案じておりました。」
「姫様は相当御立腹です。」
「そうですか…。」
佐為は悲しそうな顔をした。
その様子を見て女房はそっと付け加えた。
「でも、姫様は貴方様の御活躍を皆御存知ですよ。昨日のことは、御自分の事の様に喜ばれておりました。」
「莢子様が…。」
佐為はにっこりと笑った。
佐為が案内されたいつもの廊下には、いつもの様に碁盤と円座が用意されていた。しかし今日は爽やかな日だというのに、御簾の内側には分厚い壁代が降ろされ、中の様子が伺い知れない様になっている。そして庭にあった橘が活けられているのだろうか?甘い香りがすぐ近くから鼻をくすぐる。そしてそれに付け加える様に淡い香の香りも奥の方から漂ってくる。
「御無沙汰しておりました。御機嫌はいかがでございましょうか?」
もちろん中からは何の返答も返ってこない。
「莢子様からどうぞ。」
佐為は再び声をかけた。
ぱち…。
いつもより幾分大きな音で碁石の置かれる音が聞こえた。引き続き女房の声。
すぐに佐為はいつもの莢子様と違う事に気が付いた。いつもの様に自分を惑わすような手は一切打ってこない。真剣に勝ちにいこうという手ばかりだ。それはそれで魅力的で楽しくはあったが、全力で攻め込んでくるような荒っぽい手に少々戸惑いも感じていた。
お怒りなのだ。
佐為は思い当たった。今まで音沙汰のなかった自分に対して突然の訪問の無礼を怒っていらっしゃるのだ。佐為は気を引き締めるためにきちんと座り直した。ならばその怒りをきっちりと受け止めねばなるまい。莢子様の思いに応えなくてはならない。
数時間の死闘の後、やっと佐為は『勝った』と思った。そして真剣に勝負を挑んで来た勇猛果敢な姫君に心から敬意を表した。それに充分に応えられたと思う自分にも満足していた。
「姫様は次の手はありませんとおっしゃいました。」
そう、やや疲れたような女房の声が告げた。その後ろから小さく啜り泣く声が聞こえた。
「莢子様、今日の一局はいつにも増して素晴らしいものでした。私はこんな素晴らしい碁を貴女様と打てた事を誇りに思います。本当にありがとうございました。」
佐為は御簾越しにそう囁くとゆっくりと立ち上がった。
「また、来ます…。」
佐為はゆっくりと歩き始めたその時、御簾の中から女房が慌てて出て来て、佐為を呼び止めた。
「お待ちください、佐為の君様。」
佐為は少しいったところで歩を止め、ゆっくりと振り向いた。
「姫様は、もう自分の事はお忘れくださいとおっしゃっております。」
「えっ…!」
佐為は呆然とした様子で女房を見つめた。
「そ…、それはもうここには来るな、ということなのでしょうか?」
縋るような目で佐為は女房を見つめた。
「私の碁がお気に召さなかったのでしょうか?」
「少しの手加減も為さらずに、真剣に打って下さった貴方様には、心から感謝申し上げたいとおっしゃっております。」
「ではなぜっ?!私がお嫌いならそうはっきりとおっしゃってください。」
佐為はそこに立ち尽くしたまま、帰ろうとしなかった。だが、今から姫の部屋の前に戻っても、姫から返事が返ってくるとは思えなかった。
ふいに不如帰が鳴いた。
「佐為の君様…。」
女房は佐為の困った顔を見て、意を決した顔をした。
「この前貴方様がおいでになってから、姫様はたびたび貴方様から頂いた御文を大切そうに取り出しては、いつまでも飽く事なく眺めておいででした。」
「あ…。」
「ところがほんの数日前の事です…。姫様はお珍しくお庭にゆっくりと降りられました。」
『如月。』
『はい。』
『もう、すっかり季節はうつろってしまいましたね。藤の花が咲いていた時はあんなに盛んに鳴いていた鶯もほとんど鳴かなくなって…。』
『そうでございますね。』
『藤も花を落としてしまえば、もうどこにあるかも忘れられてしまうのね。』
『莢子様…?』
『そして橘があんなに綺麗に咲いている…。』
「莢子様はそうおっしゃるとはらはらと涙を落とされたのです。」
佐為も泣きそうな表情になった。
「お怒りのお気持ちはわかります。でも、鶯は決して藤の花を忘れたわけではありません。」
「お怒りではございませんわ。」
女房は毅然とした口調で言った。
「お忙しく御活躍の貴方様の足手纏いになってはいけないという、姫様のお気持ちです。」
「足手纏いなんて!」
佐為は大きく首を横に振った。
「姫様は今日、貴方様にお時間とお手間を取らせるだけの碁が打てるか、お試しになりました。そして御自分にはその才が無いと御判断為さったのです。」
「そんな事はありません!」
再び不如帰が鳴いた。
「わかりました。では莢子様にお伝えください。今度こそ近いうちにまた参ります。莢子様が私をお嫌いで無いのなら、どうかまたお相手をお願いします、と。莢子様と打つ一局は私の心の安らぎになりますから。」
「その様にお伝えいたします。」
佐為は名残惜しげに莢子様の部屋の方を振り返ると、女房に一礼した。
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