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「佐為、この教科書にでてる絵なんだけどさ。」
滅多に教科書など開いた事のないヒカルが、国語の便覧を開いて言った。そこには平安時代の貴族の様子が描かれた絵が載っていた。
「ああ、懐かしいですね。ええ、丁度こんな様子でしたよ。」
佐為は遠い目をしてその絵を見つめた。
「昔の人は皆佐為みたいな烏帽子や冠を被ってるだろ?でも佐為みたいに髪を長くしてる人って男じゃいないじゃん。」
「この髪には訳があるんですよ。普通成人すると皆髷を結うんですけれど。あれはまだ私が帝の碁の指南役になる前、ヒカルくらいの年の事でした…。」
佐為はゆっくりと慈しむような顔で話し始めた。
その日、佐為は恨めしげに空を眺めていた。この日は幼い頃から仲の良かった伊周(これちか)といっしょに、彼の屋敷の庭にある池のほとりで、碁を打つ約束をしていたのだ。これからは梅雨の季節、気持ちのよい天気はそうそう望めそうにない。
佐為はまだ元服前で、角髪(みずら)を結っていた。漢詩文や、和歌、龍笛を熱心に学んでいたが、取り分け碁の勉強が大好きだった。幼い頃滅多に顔を見せない父から直接教わったのが碁との出会いだった。その日の事はまだはっきりと覚えている。ちょうど今のようなこんな季節だった。
母はいつも静かに微笑んでいる蜻蛉の様に弱々しい女性だった。父が他にたくさんの妻を持って、あまり母の元にお渡りにならないことは、小さいながらも何となく分かっていた。口性ない女房達のうわさ話で聞いた事があったからだ。
だが、その日の母はいつになく上機嫌で、香を炊き込め、美しい髪を梳らせていた。そして母のすぐ脇には、色付き始めたばかりの紫陽花の花と、その花に引き立つ色の和紙に書かれた文が大切そうに置かれていた。
「佐為、あなたもお仕度なさい。お父様がお渡りになりますよ。」
「お父様が…?」
佐為は記憶をたどってみても父にあった事はほとんど思い出せなかった。父は藤原一族であり、上の方の官位を独占している一派と割と近しい家柄であった。
「またお父様は御出世為さったらしいわ。あなたもいずれお父様の後を継ぐのですよ。」
母は出世をした父のお祝に、衣を一式用意していた。それが妻の務めなのだ。
だが、やってきた父は母とはほとんど会話を交わさなかった。衣の礼を簡単に告げ、佐為の値踏みをする様に父は佐為の目の前に碁盤を置いた。
「よいか、佐為。そなたは碁の勉強を熱心にするがよい。帝は碁が大変お気に召している様だ。」
その日以来佐為は熱心に碁の勉強をする様になった。自分が碁を続けていれば、また父が母のところに渡ってくる事もあるのではないか、と思ったのだ。あんな晴れやかな嬉しそうな顔をしていた母を滅多に見た事がなかった。
だが、その日以来今まで父は母の元に来る事はなかった。あの日を境に母は二度と笑顔を見せなくなった。
佐為があまりに熱心に碁の勉強をしたがるので、母は大変評判のいい碁の打手を佐為の教師につける事に決めた。その頃には佐為は父の事とは全く関係なく碁が好きになっていた。
碁は佐為の寂しさを紛らわせる唯一の手段となった。碁を打っている時はひとりぼっちではなかったからだ。何もかも忘れて没頭できる。最初は碁を嗜む女房が相手をした。次は母の家と所縁のある者がやってきた。そしていつの間にか、佐為の評判は巷のうわさ話に登る程になっていた。するとたくさんの人が佐為を訪ねてくる様になった。こうして佐為は碁を通じて何人かの友達もできた。
この時の碁の先生の教え子の1人が先の藤原伊周であり、今では佐為より一足早く元服し、髷を結い冠を被っていた。彼はすでに低いながらも官位についていた。
「佐為、君はいつ元服するの?」
伊周は時おり佐為にこう聞いた。
「うん、もうちょっと…。」
佐為はいつもこう答えるしかなかった。社会に出るには父の力添えが不可欠だったが、それを得られるかどうかがわからなかったからだ。伊周も藤原の出であり、彼の父は摂政関白であるのでもはや出世は約束されていたも同然であった。
「それにしても。」
伊周は佐為をしげしげ見て言った。
「お前、その髪を髷に結ってしまうのはもったいないな。」
佐為の髪は母親譲りの艶やかな黒髪だった。それは漆黒の夜の闇の様に真っ黒で、光が指すと大星が舞い降りた様に光り輝くのだ。
「これだけの黒髪を持っている姫の噂など聞いた事もないぞ。」
佐為は首を竦めて微笑んだ。
「ところで佐為、次のお役目のお休みに、久しぶりにうちに来て碁をうたないか?庭のお池に綺麗な水鳥が来ているんだ。雨が降らない限りうちにおいでよ。」
「うん!」
「佐為、佐為はいるか?」
伊周と約束のその日、雨が篠つく中、庭にでて空を見つめていた佐為は、かつて何年か前に一度だけ聞いた事のある父の声が聞こえた事に気がついた。佐為は伊周との約束が果たせないこの雨空を残念そうに見つめていたのだ。今日、父がお渡りになるとは誰からも聞かされていなかった。
「はい、ここに。」
佐為はゆっくりと声のする方に寄っていった。
父は1人の老年の域に差し掛かった男を連れてきていた。その男は大変上品な物腰で佐為に丁寧にお辞儀をした。佐為も少し緊張した面持ちで礼を返す。
「佐為、少しは碁の腕を上げたか?父の言い付け通り碁の勉強はしているのだろうな。」
「は、はい。」
「では、その腕をさっそく見せてもらおうか。」
父はこの連れてきた男と佐為の前に碁盤を持ってきて自分はその横に座った。
「この子は…。」
一局終わったところで、この男は驚きの表情を浮かべていた。
「噂通りです。この子はまるで碁の神様が、大切に育てておいでのようなお方です。」
佐為はこの言葉を聞いて、うっとりと夢見心地になった。
「稚拙ながら底知れない力強さを感じます。」
「ゆくゆくは帝のお相手をできるくらいにか?」
「はい、いえ、それどころか碁の神様のお相手すらできる程に…。」
「世辞はいらぬぞ。」
「世辞など申してはおりません。帝のお相手なら、今すぐにでもできましょう。」
「佐為、出かけるぞ。すぐに仕度せい。」
せっかちなこの男は、早速立ち上がり、急かせる様に佐為を促した。
「お父様、いったい何処へ?」
「いいから黙って仕度せい。一番上等な衣を着て参るのだ。」
父は女房にそう命じ、佐為は仕度の為に奥に下がった。
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