藤咲けば 春を告げむと うぐひすの 声は歌にぞ なりて届かむ
(藤が咲くと春を告げようと鶯が鳴くことでしょう。その声は歌となって、あなたの身許に届くはずでございます。私とても、その春を告げる鶯の様にあなたの元へと伺って、また碁を打ってあなたをおなぐさめいたしましょう。)
佐為は何度も懐紙にこの歌を書いてみた。そして考え抜いて、一番よく書けたと思える一枚を選び、丁寧に香を炊き込めた。その香には甘い香りの白檀を選んだ。何故それを選んだのかわからない。二人で打った碁はそんなに甘い碁ではなかったはずだ。
それを家の者に託して、二条通りの莢子様に届けさせたのち、佐為は無性に友達の伊周に会いたいと思った。心落ち着かせる碁が打ちたい。また明日は帝に付き合って碁をお教えする約束をしているのだが、その前にお互いに心のうちを分かっている、気のおけない者と一局打ちたい気持ちになったのだ。
陰陽師を手配してくれた礼も言わなくてはならない。
佐為は牛車をひかせるための舎人をひとり連れ、屋敷を出た。
「佐為!ようこそ。」
女房から佐為の到着を知らされた伊周はにこやかに佐為を出迎えた。
「伊周、今日はお礼を言いに来たのです。」
「ああ、礼などよい。さ、こちらへ。一局打ちましょう。」
幼い頃から何度も足を踏み入れた屋敷であり、佐為は自分の屋敷の次に勝手の知っている屋敷であった。伊周の家の女房は渡殿の景色の一番いいところに円座を置き、その席を佐為に勧めた。そして別の女房は碁盤をいそいそと運んで来た。
「大変だったらしいですね。佐為。清涼殿でもその噂で持ち切りでしたよ。」
伊周は少し興味深げな眼差しで佐為を見つめた。伊周は佐為に陰陽師をつけてくれた恩人でもあり、報告しないわけにはいかないと思った。
「伊周、あなたのお陰で命拾いいたしました。」
佐為は手短にあった事をかいつまんで話した。
陰陽師と行った屋敷の主人が蝦蟇の異形であった事、一旦は消えたと思っていた蝦蟇が、莢子様と碁を打っていたら再び現れた事、今度こそ陰陽師が蝦蟇を封じてくれた事。
「それは大変な経験をしましたね。」
震え上がる動作をしてみせながら伊周は佐為に微笑んだ。
「無事で何よりでした。ところで、莢子様と碁を打たれたんですね?」
「はい。一局。」
「いかがでした?」
「なかなかお強うございました。うっかりしていると莢子様の仕掛けられた罠にはまりそうになるので、一瞬も気が抜けませんでした。」
「あはは、やられましたね、佐為。」
おかしそうに伊周は笑った。
「実際はそんなにずば抜けてはお強くないとお見受けするのですが、なにか心惹かれるものをお持ちなのですよ。そして我々の心をそぞろにして気がついてみれば終局していた、などということも珍しくありません。」
「確かに。」
「莢子様にはまたお会いするおつもりか?」
「ええ。いずれ…。」
「私は最初の碁を打って後に、文を書き、歌を送り、花を送ってようやく何度目かにその機会を得る事ができました。あなたもその機会が来るといいですね。」
伊周は微笑みを浮かべてそう言ったが、その目は本心からそう思ってないと言わんばかりに不機嫌な色を浮かべていた。
「伊周、なにか莢子様とおありになったのですか?」
心配そうに佐為が聞いた。
「佐為…。私は本気で莢子様を私の妻に迎えるつもりだったのですよ。」
伊周が悲しそうな顔になった。
「でもあちらにはそのおつもりはおありにならなかった。私の碁に愛想をつかされたのです。」
「碁に…?」
「いえ、その話はもう過ぎた事です。若気の至りでした。」
伊周はそれ以上その件については話そうとしなかった。
「その直後、私は今の妻と会い、結婚しました。ああ、誤解の無いように言っておきますが、私の一方的な思い込みであって、莢子様は全くそのおつもりは無かったようです。碁を打つためだけの客人。その証拠に10局近く打ちましたが、私はいつも御簾の向こう側で、一度として壁代すら上がっていた事がございませんでした。お歌を贈っても、お返事はただの一度も…。ただ、碁を打ちたいと思われた時に、舎人を使いに出されて、文では無くお言葉で伝えられただけです。」
伊周は佐為が黙っていたので、自分も口を噤んだ。しばらく沈黙が続いた。
そして伊周は自らその沈黙を破った。
「裏庭から垣間見た莢子様はその力強い碁からは想像がつかない程、清楚で儚くて可愛らしい方でした。そして私はいまあなたに無性に嫉妬をしています。」
「伊周殿…。」
佐為は困った様に伊周を見た。
「莢子様をお願いいたします。」
伊周は深々と佐為に頭を下げた。
「太政大臣殿はあれでいてなかなかの策略家。きっともうしばらくしたら、お家の為に莢子様をお使いになられる事でしょう。その前に何としてでも私のものにしたかったのです。私は失敗しました。佐為、あなたにこの思いを託します。」
佐為は昨日の陰陽師の言葉を思い浮かべた。そして伊周の顔を見つめた。
「もし機会があれば…。」
佐為は曖昧にはぐらかして伊周に微笑んだ。
「さ、打ちましょう、伊周。私はあなたと碁を打つために今日ここに来たのです。」
「ああ、そうでしたね。」
翌日、帝と碁を打った後、佐為は意を決して莢子様のお屋敷を再び訪れた。懐にはお守りの代わりに先日莢子様から頂いた文を忍ばせている。取り次ぎを頼むと、女房が快く取次いでくれた。
「姫様はあのままお倒れになってしまわれましたが、きっと貴方様のお越しでお元気になられます。昨日頂いた御文を莢子様は本当に大事そうに何度も御覧になってらっしゃいましたから。」
「莢子様が…?」
佐為は思わず嬉しそうな顔をした。
佐為は取り次ぎにいった女房の帰りを、じっと待った。今日はあらかじめ訪ねると言っておかなかったために、きっと慌てて仕度を為さっているのかも知れない。
佐為はその間何気なくお庭を眺めていた。そこには老いた松に藤原氏の象徴である藤の花が見事に絡み付き、たわわな花房を垂らしていた。
なぐさめに 君が置きてし 藤の花 心ならずも 歌なしにして
佐為はそっと懐に忍ばせた文に狩衣の上から触れた。
「莢子様、打ちましょう、何局でも。貴女様がもうたくさんとおっしゃるまで、私はここに通います。」
しばらくたって佐為は先ほどの女房に迎えられ、案内される後を付いていった。
「あの、突然にお伺いして莢子様は御迷惑ではなかったでしょうか?」
「大丈夫ですよ。大変嬉しそうになさっていらっしゃいましたから。」
安心した顔で佐為は微笑んだ。
「ごゆっくりどうぞ。」
先日案内されたのと同じ廊下に、円座が据えられていた。今日はすでに碁盤の用意もできている。
「碁を打たれるのですか?お身体に障りませんか?」
佐為は莢子の身を案じて女房に聞いた。
「莢子様はとても楽しみに為さっております。」
佐為は腰をかけて気が付いた。御簾の向こうの壁代が上げられている。伊周の時には一度もなかった事だといっていた。そして柔らかい香りではあるが沈香だけではなく麝香のような香の香りがした。壁代がないため御簾を通して微かに中が伺い知れる。
「莢子様、お加減はいかがでしょうか?御無理は為さらないで下さい。」
返事は帰ってこなかったが、くすくすっと鈴が転がるような笑い声が聞こえた。
「莢子様の先番でよろしゅうございましょうか?」
女房の声が聞こえた。
「はい、けっこうです。」
佐為が答えた。
この前以上に翻弄されそうになった佐為は、途中何度も深呼吸した。しかし深く息をすると、このあたりに立ち篭める芳しい麝香の虜になりそうであった。伊周が裏庭に回り、莢子様のお姿を一目見ようとした事もわかる気がした。
ぱち…。
佐為はだらしなくなりそうな自分に気合いを入れ、一手を放った。
「では、今日はこれで失礼いたします。また近いうちに参りますがよろしいでしょうか?」
佐為は再び返事を期待せずに莢子に語りかけた。
「ハイ…。」
微かではあるが、女房の声ではない声で返事が聞こえた。
「姫様!」
続いて驚いた女房の声。
佐為は少し頬を染めてにっこりと微笑んだ。
佐為はゆっくりと円座から立ち上がった。
「では、また…。」
佐為は来た廊下をゆっくりと引き返し始めた。
「ひ、姫様、はしたのうございます!」
佐為は御簾のちょうど縁まで来た時、ふとそんな女房の声を聞いて、振り向いた。
「あ…。」
佐為と、御簾の内側と同時に声が漏れた。
佐為はちらりと見たのだ。そこに唐衣をきっちりと着た愛らしい姫が、几帳の向こうから膝立ちをしてこちらを見ているのを。
姫は恥ずかしそうに顔を背けると慌てて几帳の後ろに隠れてしまった。その几帳から溢れだしている豊かな黒髪は、本当に見事なものだ。
「あの…。また近いうちに参ります。必ず…。」
佐為は名残惜しげにもう一度そういうと、後ろ髪を引かれる思いでゆっくりと廊下を寝殿に向かい歩いていった。
<終わり>
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