佐為は自分の屋敷に帰って来ていた。気味の悪いものを見た。思い出すだけで総毛立ち、蕁麻疹ができた。
「と、まあこういうわけです。」
鳥肌をたてながら、佐為はヒカルに語り終えた。
「あんなに気味の悪いものは、後にも先にもみたことがありません!それ以来蝦蟇ガエルや蝦蟇ガエルに似た人を見ると、蕁麻疹が出るんです。」
小刻みに震えながら、佐為は呟いた。莢子の前ではこんな情けない姿は見せなかったが、本当に気持ちが悪かったのだ。
「でも、そんなことってあるんだな…。あはは…。」
ヒカルは全く信じていないふうであったが、そう呟くとにっこりと笑った。
「信じてませんね、ヒカルっ!」
「そんなことないって!佐為だってこうやって今ここにいるんだ。そういう事があったっておかしくないし。」
「私をあんなものと一緒にしないで下さい。」
心外だ、と言わんばかりに佐為はむくれた。
「ところで、佐為。その姫様はその後どうなったんだ?」
「さあ…。詳しい事はわかりませんが、しばらく蝦蟇の樟気にあてられて寝込んでしまわれたようですよ。」
「ふうん…。」
ヒカルはそれ以上は聞かなかったので、佐為もそれ以上は言わなかった。もちろん聞かれても何も言わなかったであろう。
佐為は遠い目をして窓の外を見て、そして黙って目を閉じた。
佐為はそれから屋敷に帰っても、莢子の身を案じると、じっとしていられない気持ちになった。さぞ気持ちの悪い思いを為さっている事だろうと思うと、花だの文だのを送ってみようかと言う気持ちになった。白状すれば蝦蟇の一件がなくとも、何かを贈りたい衝動に駆られただろうとは思う。
それは莢子様が深窓の姫君であり、伊周に聞くまでもなく相当な美人との評判であったからだけではない。二人で打ったあの一局が忘れられないのだ。
ぱち…。
佐為は碁盤の前に座り、あの時の一局をゆっくりと並べてみていた。なぜ、こんなにも心が騒ぐのだろう?この狂おしいまでの心の乱れはなんだろう?あの人はどんな表情をして、あの一局を打ったのだろうか?
佐為は莢子が優勢に立っていたところまで碁石を並べると、そこで手を止めた。そして思い立ったかの様に女房に硯と紙を用意させた。
「まあ、お珍しゅうございますね。佐為様がお文をしたためるなんて。」
女房は墨を摺りながらそう言った。佐為はそれには答えずに、懐紙を何種類か眺めてその中から淡い萌葱色を選んだ。莢子様のお屋敷のお庭に溢れていた瑞々しい新緑に魅せられたからだ。そしてそれに似合う爽やかな香も選んだ。
佐為は高ぶる気持ちと裏腹に、その紙に何を書こうかと思案した時に、在り来たりの言葉しか浮かばない事に気がついた。それでもとりあえず、招いてくれた事へのお礼、莢子の打った碁への賞賛、そして床に伏してしまわれた事への見舞いの言葉をしたため、丁寧に折り畳んだ。
そして、庭に咲く藤の一房を添えて家の者に莢子様へと届けさせたのだ。
返事は期待はしていなかった。女性に文をしたためて返事をいただける事はそう滅多にないからだ。それも太政大臣の姫君とあれば、引く手あまたなのは確かだ。何があったか知らないが、伊周ですら努力をしてみたと言っていたではないか。
佐為はそのまま他の者を連れて、土御門通りにある陰陽師の屋敷に礼に出向いた。心からの感謝を伝えたいと思ったからだ。陰陽師は佐為が来る事をあらかじめ分かっていたかの様に、自ら出迎えた。佐為は戸惑って陰陽師の顔を見た。
「どうぞ、お入りください。丁度よかった。あなたと少しお話したい事があったのです。」
佐為は陰陽師に促されるまま、屋敷に上がり込んだ。ごく普通の屋敷であった。他に人の気配が全くしない事を除けば。
佐為は勧められるまま円座に腰掛けた。
「お話と言うのは他でもありません。もしあなたが御自分のお命を大切とお考えなら、あの姫君にはお近づきになられない方がよい、と御忠告申し上げたかったのです。」
佐為の顔色が変わった。
「とおっしゃいますと…?」
「あなたはいつの日かあの姫君の事が発端で、そのお命を落とされるでしょう。あなたには強い妬みの呪がかかっています。」
「妬みの呪…。」
「あなたのその碁の実力を妬ましく思っている人が何人もいて、隙あらばあなたを亡き者にしようとしているのです。そしてあの姫君は近い将来あなたの弱味となりましょう。」
「それは…?」
「今申し上げられるのはこれだけです。でも…。あなたはきっとあの姫君から逃れられない…。」
落胆したような佐為の顔を見て、陰陽師はおもしろそうに笑いかけたが、その不謹慎な笑みを急いで引っ込めた。
翌日、佐為の予想とは反対に早々と莢子から返答が来た。莢子の屋敷で見かけた舎人が、恭しく届けて来たのだ。それは淡い紫色に染められた藤の花と見まごうばかりの薄い懐紙に、あの時の部屋に焚いていた香と同じ、ほんのりと沈香の香りが炊込められていた。その微かな香りが大変奥ゆかしく、そして艶っぽい印象を与えていた。
佐為は急いでその文を開いてみた。そこには歌が一首書かれていた。
なぐさめに 君が置きてし 藤の花 心ならずも 歌なしにして
(私へのなぐさめとして、あなたが置いていってくださった藤の花。けれどその藤の花には歌が添えられてはおりませんでした。)
佐為は鼓動が早くなるのを感じた。これをどう判じればよいのだろうか?確かに贈った文は歌一つ添えず味気ないものだったかも知れないが、わざわざそれを指摘されるのは…。そしてその女性らしい可愛らしくそれでいて艶やかな書体を見て、品のよい中に何か熱いものが流れているようで、一緒に打ったあの一局が再び思い起こされた。そして目の前においてある碁盤に再びあの一局を並べ始めた。
碁石を並べながら、佐為は無性に自分に都合のいいその歌の解釈を思い付いてはいた。だがそれに気がついた時、顔が熱く火照るのを感じ、思わず手を止めた。
(これはあなたが『置く』のは藤の花だけで、もうここでは碁を『打た』ないという意味なのでございましょうか。)
再び招待を受けたのではないか…。それならば今すぐにでも飛んでいきたい。それが叶わないならばせめて歌を返さなくては!
あの時の碁だけではなく、この歌までが自分を翻弄する…。しかし何と心地よいのだろう?このまま弄ばれてみたい…。あの碁を打っていた時に感じた様に。今回はあの時の様に主導権を取り返す事はやめよう。このまま流されていってみよう…。陰陽師の言った事は大変気にはかかるが、後の事はどうなってもよい、今は流されてみたいのだ。どこまでも…。
佐為は立ち上がり、返歌を作るべくぬれ縁に出て庭を眺めた。
春爛漫の午後の庭であった。
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