「ヒカル、昔私の生きていた時代は、こういう怪しいものや鬼が本当に沢山いたんですよ。」
「まさか…。」
ヒカルは愛想笑いのようなものを浮かべて、佐為を見つめた。
「信じられないのはわかります。しかし今の世の中を当時の我々が見れば、相当奇異な世界に見えるのですから、その逆に当時は今からは想像も出来ない奇異な事があってもいいと思います。」
「なのに碁は昔のまま今に伝わっているなんて、すげーことだよな。」
ぽつりとヒカルは言った。
「ええ。」
佐為はにっこりと微笑んだ。
「でもそういう事もあるかも知れないな。だってお前だって碁盤に宿っていたくらいだから。」
「ええ、私は絶対蝦蟇ガエルにだけは宿るまいと思いました。生きたものに宿れば身の無い苦しみからは解放されます。でもあのようなあさましい姿になるのは、絶対イヤです!」
ぶるっと身を震わせて佐為は呟いた。
「で?その後、どうしたんだ?その蝦蟇ガエルは。」
「はい。あのまま行方知れずになったものとばかり思っておりました。」
ややしばらくして落ち着きを取り戻した佐為は、自分の後ろに逆光に浮かび上がる人影があるのを見て、悲鳴をあげそうになった。
「御無事で何よりでした。」
白い狩衣をさらりと着こなした、歳のころは30半ばと思われる細身の男が立っていた。
「あなたは?」
「伊周殿から頼まれてこちらに参った陰陽師です。」
佐為の顔にふっと笑顔が戻った。 この陰陽師、本当の歳はわからない。もう60くらいはいっているのではないかと言う噂だ。だが、ずいぶん昔から、このままの姿だと聞いた事がある。気味が悪いが今はそんな事を言っている場合ではなかった。
「ありがとうございました。危うく囚われの身になるところでございました。」
しかし、陰陽師はにこりともせずに言った。
「安心されるのはまだ早い。あの者は碁が打ちたい一心で蝦蟇ガエルに宿っていたもの。かなり強固な意志なれば、自分で納得しない限りは何度でも姿を現す事になるでしょう。」
「あなた様のお力を持ってしても、それを封じる事は出来ないのですか?」
「今のままではできません。」
佐為は再び青くなった。
「あなたが碁を打たれる度に、あたりをよく探してみられるといい。きっと小さな青い蛙がいるはずです。あの蝦蟇はそれを自分の手足として使っていると思われます。その青い蛙を捕まえて、土御門通りにある私の屋敷にお持ちになれば、二度とあなたのところに現れない様にする事はできます。」
「蛙をあなた様のところに?」
佐為は全身に冷や汗が流れて総毛立つのを感じた。小さな青い蛙ならば先ほどの蝦蟇よりはいくぶんマシではあるが、蛙を捕まえると思っただけで、本当に気分が悪くなった。
「さ、一緒に帰りますよ。あなたが暮らす場所とは少し違うところに入り込んでいますから、あなた1人では戻れません故。」
高名な陰陽師の後ろを、佐為はとぼとぼとついて行った。途中渡殿を通りかかると、再びあのどろどろとした池がよく見えたが、そこにはもう緑の藻は見当たらず、ぶつぶつと気泡の上がる、異臭が立ち篭める泥の沼と化していた。
「佐為殿、聞きましたよ、聞きましたよ。」
清涼殿で佐為を見かけた太政大臣は、人々の噂に登っている蝦蟇の異形の話を聞き付けて言った。
「あなたの事を疑って申し訳ない事をした。して、そのお話は今度ゆっくりと願う事として、うちの末の姫があなたとの碁の勝負を心待ちにしておるのですよ。早速で申し訳ござらんが、明日などいかがでしょう。」
「碁が打てるとあれば、それは願ってもない事です。しかしまだ今回の事が解決したわけではありませんので、もしかしたら姫様に御迷惑をおかけするやも知れません。」
「はは。大丈夫だ。私の屋敷には大勢の武士が控えておる。そうそうやすやすと近寄れる代物ではありません。御安心召されい。それにつけてもそなたは相当碁がお好きなのじゃな。」
実は佐為はうんざりしていたのだ。どこに行っても皆佐為の今回の話を聞きたがり、その度にどんなに恐い思いをしたのかを話して聞かさねばならなかった。もう思い出すのも嫌だと言うのに。そして碁が打てる喜びを、蝦蟇ガエルの話をする度に思い起こす事にもなった。この身のある喜び…。神の一手の追求…。生きていればこそできるこの喜びを共に分かち合える碁の相手がいれば、佐為には他に望みはなかったのだ。
「では、明日は私の牛車で伺わせていただきます。」
佐為は恭しく礼をした。
この時、佐為は足下に青い小さな蛙がいるのを見つけた。
「蛙が!」
思わず佐為はそう言うと、捕まえるべく手を差し伸べた。
ぴょん…。
蛙は佐為の手をかいくぐってどこかに消えた。
翌日佐為は、信用のおける牛車の為の舎人を1人と共の者を2人連れて、太政大臣の末娘莢子様に会うべくお屋敷に向かった。佐為は牛車の簾は下げなかった。そして間違いなく莢子様のお屋敷に着くのを目で確かめた。
そこは見事なお屋敷だった。佐為は溜め息がでそうなその庭に、しばし見とれていた。
春の花は今が盛りと咲き争い、かといってうるさすぎず、吹き出す様に溢れ返らんとしている若い緑色との絶妙な丁合を保っている。橋の架けられた池には見事な模様の鯉が何匹も泳ぎ、そして水鳥が羽を休めている。
「刀はお預かりさせていただきます。」
警護に当たる武士の1人が佐為に近づいて来て言った。
いつもは持ち歩いていないのだが、今日ばかりは何かがあってはと思い持って来たのだ。だが考えても見れば女性を訪ねるのに刀を持ってくるのは、非常識と言えば非常識であった。
佐為は刀をその男に渡すと屋敷に上がった。すぐに女房が迎えに来た。共の者を連れたまま先導する女房の後ろをついて歩きながら、そこに置かれた調度の趣味のよさにも感嘆した。奥に向かい部屋の趣向がいろいろと変化する。淡い光の加減を楽しむ部屋、質素な風情を楽しむ部屋、唐の情緒を楽しむ部屋。どれもこれもこの家の主である姫が、噂通りの趣味のよい方であるというのを表すのに十分であった。
奥まった部屋の御簾の前には円座が置かれており、女房は佐為にそこに座る様に促した。佐為は一礼すると、そこにそっと腰を降ろした。ふとそこから振り向いて外を見ると、丁度そこからは遣水の流れが見え、微かな水音がさらさらと聞こえていた。
莢子様のお部屋の中からは、ほんのりと沈香の香りがした。自分が訪ねる時間に合わせて、程よく焚いていたのであろう。
御簾の後ろには壁代という布が降ろされており、中の様子を垣間見る事は叶わない。
そのとき、御簾の向こう側に人が動く気配がした。
「この度はお招き頂きまして、大変光栄に存じます。藤原佐為ともうします。」
佐為はその気配に向かってそう切り出した。ここで姫からお言葉をいただけるとは思えなかったが、とりあえずやんごとないお方からお誘いがあったのだ。その礼を述べねばなるまい。
先日いったあの蝦蟇ガエルの姫には藤の花を手みやげにしたが、今回は手ぶらであった。また変な事に巻き込まれるのはまっぴらだったのだ。あの蝦蟇ガエルが自分に興味を持ったのは、あの花が原因だったのではないかとも思えるのだ。
その時、先ほど佐為をここまで案内して来た女房が、部屋の奥から美しい細工の施された碁盤を抱えてやって来た。そしてそれを佐為の前に置いた。
「おそれいります。」
佐為は碁笥を2つとも受け取って、軽く会釈した。
「姫様は貴方様のお越しを大変お喜び遊ばしております。」
「こちらこそ、楽しみにしておりました。」
佐為は御簾の向こうの姫にも聞こえるような声でそう言った。
「莢子様の先番でどうぞ。」
女房は、姫の助けをするべく再び御簾の向こう側に消えた。
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