佐為はこのうち手に興味を持ち始めていた。面白い手をどんどん打ってくる。しかし大抵それは姑息な手であり、やはり深窓の姫君の打つような上品な手ではなかった。
「負けました。」
女房の声がした。
「ではこれにて失礼いたします。」
佐為は立ち上がった。そして来た廊下を引き返している時、再び音もなく後ろに先ほどの女房が姿を現した。
「お待ちください、佐為の君様。」
女房の声の様子が少し荒くなっている。
「いかがなされました?」
佐為はできるだけ平静を保つ様に深呼吸をしてから、ゆっくり振り向いた。
「はっ…。」
佐為の口から思わずそんな声が漏れた。そこには先ほどの女房と同じ衣を纏った異形の輩が、探るような目で立っていた。
「佐為の君様、あなた様は色々な事をお気付きになってしまわれましたね。」
「い…、色々な事?」
「あまり触れ回れては困ります。今日はお返しするわけには参りません。」
ぬめぬめとしたイボのある肌にぎょろりとした目。口は大きく裂けており、その中からちらちらと赤い舌が覗いている。
「わ、私が一体何に気がついたと?」
佐為は震えそうになるのをぐっとこらえて、この異形の女房をできるだけ刺激しない様に微笑みかけた。
「先ほど差し向けた舎人にも、そして私にもここは本当に莢子様のお屋敷かとお聞きになられました。」
「いかにも。」
「昨日、太政大臣殿にもここの事を何か言われていたとか。我々の仲間がそう申しております。」
佐為は観念した。今はおとなしくしておこう。自分の後ろを陰陽師が付いて来ているはずであった。
「私をどう為さるおつもりか?」
けっけっけ…、そんな笑い声が女房の口から漏れた。
「それは姫様がお決めになります。姫様はあなた様の事を大変お気に召した御様子でしたから。」
女房は佐為の左手首を掴んだ。ひんやりとした冷たさと共に、べったりとしたぬめりを感じた。
「ひ…。」
佐為の口から思わず声が漏れた。女房は満足そうににんまりと笑った。
佐為はそのまま強い力で引きずられた。とても女性の力ではなかった。
「ど、どこに!?」
「姫様のところっさね!」
佐為はなんとか女房の手を振りほどこうともがいてみた。右手で自分の左手首を締め付ける女房の手を外そうと試みたが、固く握られた手は外れる気配もなかった。
ずるずると佐為は先ほど碁を打った部屋に向けて引きずられて行った。
「おやめください、このような事を為さるのは!」
震える唇で佐為は最後の抵抗をしてみたが、無駄だった。佐為は中に入る事が許されていなかった御簾の中に連れ込まれた。
御簾の内側にある姫様のお部屋は、とても趣味のいいものとは言えなかった。薄暗い部屋の中はさらに趣味の悪い緑色の几帳で隔てられ、茵(高級な座ぶとんのようなもの)がその前に重ねられていた。
「姫様、佐為の君様を連れて参りました。」
ぐわっぐわっという笑い声とも鳴き声ともつかない声が几帳のむこう側から聞こえた。
「よくぞ参られた。」
几帳の向こうにいるその声は、しゃがれて潰れていた。
「ああっ…。」
佐為は女房に突き飛ばされる様に床に叩き付けられ、心ならずも茵の上に倒れ込んだ。
「これ、蟇女、そんなに乱暴に扱ってはならぬ。大切なお客さまです。」
男とも女とも取れないしゃがれ声が再び几帳の向こう側から聞こえた。
「佐為の君、怖がらずともよい。わらわはこの屋敷の主なれば、そなたを歓迎いたす所存。」
「私をここから返して下さい。私は碁を、碁を打ちたいのでございます。ここに閉じ込められるのは本望ではありません。」
佐為はもしかしたらもう碁を打つ事も叶わなくなる、と言う事に気が付いた。そのとたん、身体の震えが止まった。震えている場合ではない。碁が打てないくらいならいっそ死んだ方がましだ、とも思った。
「案ずるな。碁を打ちたくば、わらわがいくらでも相手をして差し上げよう。そなたはこの屋敷から一歩も外にでる事は叶わぬぞ。」
「あなたは…。」
佐為は気が付いた。
「あなたは私と同じ、碁がお好きなのですね?」
ぐわっ…。
気味の悪い声が聞こえた。そして啜り泣くような嗚咽も…。
「好きだともさ。」
「なれば、私と同じ様に、たくさんの人とお打になればよかろうに…。」
「それは出来ぬ!このような姿になってしまっては!それは叶わぬのだ。」
嗚咽はそのまましばらく続いた。
この姫は尋常ならざる者だというのは窺い知れた。だが、強い碁を思う気持ちが垣間見れる。佐為は恐い気持ちが少し薄らいだのを感じた。
「よろしければ御事情をお話頂けませぬか?」
佐為は優しく聞いた。
しばらく沈黙が流れた。
そしてその沈黙を破る様に几帳の向こうの姫様は話し始めた。
「いかにも、私は尋常ならざるもの。奈良の時代に碁を打つ事に取り付かれた哀れな碁打ちでございます。」
「なんと!」
奈良の時代、唐の国から碁が伝わって来たと言われている時代だ。
「私は宮廷のお抱え碁打ち、碁を打つ事が私の与えられた仕事でありました。」
姫の話によれば、内乱が激しさを増した折、帝は退位を余儀無くされ都から落ちて行った。その時自分は捕らえられ、処刑されたのだと言う。
「しかし、碁が打てるのであればと思い、必死でこの身体に取り付いたのでございます。」
そのとき、几帳の向こうから『むぐぅ…?』という奇妙な声が聞こえた。
「おのれ、謀ったな!藤原佐為!!陰陽師を連れて来ておるとは!」
ガタン…。几帳がゆっくりと倒れて来た。
「うわっ!」
佐為は思わずその場に伏した。
しゅうしゅうと音が聞こえ、天井から霧雨のようなものが渦を巻いて降り掛かる。
佐為は目の前の姫を見た。唐衣も袴も何もかもが緑色で、手には醜いイボが点々とあり、顔は蝦蟇ガエルそのものであった。
「そなたも碁打ちなれば、わらわのこの気持ち、わかるであろうと思うとったのに!」
しゅう………。
みるみるうちに姫は縮んで一匹の蝦蟇ガエルに姿を変えた。
ぴょん…。
蝦蟇ガエルは腰を抜かした佐為の目の前と悠然と跳ねながら、その屋敷から出て行った。
|