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翌日、佐為は舎人を1人伴って伊周の屋敷を訪れた。伊周は父が関白になると同時に正四位下に叙せられていた。
「なに、莢子様と碁を!?」
伊周は目を釣り上げてそう言ったが、佐為の顔が何となく浮かないのを見て、ふと心配そうになった。
「で、わざわざ私を訪ねてくるとは、何かあったのですか?」
佐為は寝殿の入って間もなくの渡殿に通されて、その庭のよく見える廊下に腰を降ろした。春爛漫の折、庭には淡い彩りの花が上品に見えかくれし、目の前の庭には近くの川からひいて来た遣水がちょろちょろと流れている。
「実は私が昨日碁を打ったのは、藤原莢子様ではなかったのではないかと思うのです。」
「というと?」
「実は私は昨日舎人も連れず、迎えに来た牛車に乗って1人で莢子様のお屋敷に行ったのですが、私の覚え違いでなければどうも違うお屋敷に出向いてしまったのではないかと思うのです。」
「どうして違うと思うんです?」
「私の屋敷から莢子様のお屋敷まではいくつかの道を朱雀大通りに向かって横切り、そこを右に曲がってしばらく行ったところにあるでしょう?だが、少なくとも4、5回は道をまがったのではないかと思うんです。最初は方違いかなにかだろうと思っていたのだけれど、それにしても牛車に乗っている時間が予想よりかなり長かったんです。」
「で?打ったのですか?」
「はい、打ちました。」
「どうでした?」
「大変お強かったです。でも慈悲の心の薄い、身勝手な碁を打たれる方でした。」
「それは莢子様ではない。」
伊周はきっぱりと自信ありげにそう言った。
「実は私も莢子様とは何度か碁を打った事があります。」
「あなたもですか。」
「確かにお強いが、なんというかその…。」
伊周は少し顔を赤らめた。
「あんなたおやかで、あんな情熱的な碁を打たれる女性は初めてでした。あの方は私に直接お言葉をお掛けくださらなかったけれど、碁を通して会話ができる女性でした。」
「では私が打ったのは…。」
「全く違う方に違いない。」
佐為は青くなった。ではいったい自分が碁を打ったのは誰だったのだろう?
「明日も打つ約束をしてしまった…。どうしましょう!?」
「もしよかったら数名武士を差し向けましょう。もし望むならその筋の専門家を用立てるのもいいかも知れない。」
「その筋…?」
「陰陽師です。」
「そんな大袈裟な…。」
「大袈裟ではないぞ、佐為。安心召されい。この伊周が必ずその輩を捕らえてくれよう。」
佐為は頼もしげに伊周を見た。
「やはり持つべきものは友達、ですね。」
「佐為、君の為ではないぞ。そのような輩が莢子様を語るとは許しがたいだけだ!」
伊周はまだ顔を赤くしたままだ。
「そうですか。」
「私は頑張ってみたのだよ、佐為。」
ややしばらくして伊周が言った。
「頑張る?」
「光源氏よろしく、莢子様のお屋敷を出てから裏手に回り、その垣の合間から一目お姿を拝見しようと…。」
佐為は少し安心したのか、愉快そうに微笑んだ。
「伊周、貴方でもそんな事を為さるのですね。」
伊周はますます顔を赤くした。
「それほどの魅力的な碁を打たれる女性だったのです。佐為だって打ってみればわかります。」
佐為は黙って微笑んだ。そしてしばらく伊周の顔を眺めたあとにそっと小声で言った。
「私はあなたとは違いますよ、伊周。」
佐為はその翌日、再び迎えに来た舎人に連れられ牛車に乗った。一昨日迎えに来たのと同じ少年だ。口がやけに大きく、目がぎょろっとしていて、緑の水干を着ている。
「本当に藤原莢子様のお屋敷に向かうんだろうね?」
佐為はその少年にさり気なく聞いた。
「も、もちろんでっさ。」
少年はおどおどした様子で答えた。
佐為は簾を少しあげて外の様子を見ていた。自分の乗った牛車の少しあとに、もう一台の牛車が追い掛ける様にゆっくりと走ってくるのが見えた。伊周が手配をしてくれた陰陽師だろう。その後ろを何人かの武士が追い掛ける手筈であった。
ふいに牛車が曲がった。朱雀大路に向けて走っていた牛車は右に折れ、莢子様のお屋敷のある二条大路に向かった。そして牛車はそのまま真直ぐひた走った。
「莢子様のお屋敷に、確かに向かっている…。やはりあれは莢子様御本人であったのだろうか。」
佐為は簾をそっと降ろした。
そのままかなりの時間が過ぎた。そろそろつく頃であろうが、一向に牛車は止まる気配がなかった。しかし今回は佐為の後ろには陰陽寮の陰陽師が付いて来てくれているのだ。伊周の話では藤原道長公の大変頼りにしている陰陽師だと言う。
「着きました。」
佐為の乗った牛車が止まった。簾をあげて外を見ると一昨日来た寝殿造りのお屋敷であった。先ほどの舎人が先導しながらお屋敷に入って行った。
「ようこそお越しくださいました。ささ、姫様がお待ちです。」
やはり一昨日出迎えてくれた女房が屋敷の中を案内した。寝殿から渡殿を通る。そこから見える庭には先日見たままの大きな池が見えた。一昨日と同じ様に池はどろどろの青い藻がびっしりと生え、魚の姿は見えないくらいであった。
ぴょん…。
ふいに池から青い蛙がはねた。
春だと言うのに、庭には草がぼうぼうと生え、花らしい花はさして見当たらなかった。太政大臣の御息女が住む屋敷の様相ではない。
あの伊周が顔を赤らめるような女性の屋敷とはどう考えても思えなかった。莢子様に碁を誘われたと聞いた瞬間のあの羨望の眼差し…。
「ここはどなたのお屋敷ですか?」
佐為は自分の前を行く女房に声をかけた。
「まあ、御冗談がお上手ですこと。佐為の君様。ここは太政大臣の末の御息女莢子さまのお屋敷です。」
佐為は案内されるまま、再び奥の部屋の御簾の前に連れて行かれ、そこに腰をかけた。
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