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「ねえ、佐為。どうしてお前ガマガエルが苦手なんだ?」
ふと思い出した様にヒカルが聞いた。佐為はガマガエル、と聞いただけで総毛立った。
「ヒカルっ、あんな気持ちの悪いものの話などしないで下さい!」
「ごめん、でもさ…。」
ヒカルは碁を打っている時の勇ましさからは想像も出来ないような、佐為のうろたえぶりにぷっと吹き出した。
「ヒカルも一回あんな気味の悪いガマを見たら絶対苦手になりますよっ。」
口を尖らせて佐為は不満そうに言った。
「どんなガマを見たんだ?」
「どんなもこんなも!」
佐為は、思い出したくないような素振りでぶるっと身体を一度震わせると、ゆっくりと話し始めた。
「あれは私が元服をしてしばらくした時の事でした。私は帝の碁の指南役として宮中に参上する事も有りましたが、貴族の方々に請われてそのお相手を勤める事もしていました。男の人はもちろん、碁を嗜む宮廷の女房方とも打ちましたし、御簾(みす)越しに姫君と打った事もありました。あれは太政大臣殿の姫君のところに行った時の事です。藤原莢子(さやこ)様とおっしゃいました。」
佐為は清涼殿で帝の碁の指南役をしていた折り、太政大臣に末娘の莢子の碁の相手をしてもらえないか、と頼まれた。
「はい。では近いうちにお伺いいたしましょうか。」
佐為は何気なくそう返事をした。
この時代、姫君を訪問すると言う事はいろいろと意味の深い事であり、普通は男の方から文をしたためて、訪問をお許し頂く事が多かった。もちろん、お許しいただけない事も多い。女性特に深窓の姫君の方から誘われる事など滅多にない事だ。伊周は何人かの姫君にへたくそな歌を送り、そのうちの一番色好い返事の来た姫とめでたく結婚していた。だが、佐為はどうしてもそのような事に時間を取られるのが鬱陶しく、深窓の姫君に文を送った事はなかった。
この藤原莢子様はその御尊顔を拝したものはほとんどいなかったが、噂ではたいそうな美人であると言う事だった。
「では、藤原佐為殿、明日牛車で迎えに行きますので、よろしくお計らい下され。」
太政大臣はそう佐為に告げた。
「かしこまりました。」
翌日佐為は屋敷の前まで迎えに来た牛車に乗り込んだ。手には庭に咲いていた藤の花を一房携えた。この牛車は若い童が先導をしている。この童、少々変わった身なりをしており、緑の水干を着て、顔は少々吹き出物の類いができており、口は大きめであった。
ゆっくりと牛車は走り始めた。確か莢子様のお屋敷は佐為の屋敷とは少し離れて何本かの道を通り、何回かの角を曲がって行くはずであった。
簾を降ろしていたので、どのような道を通ってそこに向かっているかはわからなかったが、その揺れ具合からそろそろ屋敷についてもよさそうな頃合になった。だが、なかなか牛車は止まらない。佐為が不思議に思って簾をあげてみようかと思った頃に、ようやく牛車は止まった。
「お待ち申し上げておりました。」
太政大臣の娘の屋敷につくと、女房がうやうやしく 出迎えに来た。この女房も今まで宮中や自分の屋敷で見かけるものとは何となく雰囲気が違っていた。これはいったいどうした事だろう?
「ささ、こちらへ。」
佐為は案内されるまま、長々と続く廊下を歩いて行った。その一番奥まった廊下の突き当たりに、見事な縁のある御簾が見えた。ここが姫君の部屋なのだ。
「姫様がお待ちです。こちらへ。」
女房は御簾の前に座り心地のよさそうな座ぶとんを用意した。佐為はその廊下に置かれた座ぶとんに腰を降ろした。今日はこれ以上中に入る事は許されない。中に入る事が許されるのは、もっと親しくなってからの事だ。さらに直接顔を見られるのは、婚姻を結ぶ程に親しくなってからだ。
「これを姫様に。」
佐為は手に持っていた藤の花を、この女房に差し出した。本当なら歌を詠み、気のきいた文を添えるものなのだろうが、佐為はそのつもりは毛頭なかった。簡単な挨拶をしたためた文を添えただけだ。
案内して来た女房が御簾の中に消え、しばらくして戻って来た。
「藤のお花は、姫様は大変お気に召した御様子です。姫様に変わってお礼申し上げます。さ、碁盤の用意ができました。貴方様は碁盤を使いなさりますか?」
「いえ、なくてもけっこうです。姫様の先番でどうぞ。」
佐為がそう言うと、しばらくして先ほどの女房の声で姫様の打った場所を知らせる声がした。続けて佐為は自分の打つ場所を告げた。
ぱち…。
碁石の音がするとしばらくして女房の声がする。そして佐為が場所を告げるとまた、ぱち…と音が聞こえる。
なかなか腕のたつ姫様だ、と佐為は感心した。だが、なんとなく奇妙な手を打つ事もあった。女性のうつ碁とは思えないような、好戦的で狡猾な打ち方だ。佐為はこの姫に対する興味がどんどん失せて行くのを感じた。
「ありません。」
しばらくして女房の声が聞こえた。気味の悪い程に淡々とした言い方だ。自分が打っているからではないからであろうが、なんとなく鳥肌がたつ程に冷え冷えとした言い方だった。
「ではこれで失礼いたします。」
佐為はさっさと立ち上がり、来た廊下を戻り始めた。途中ふと目を止めた庭には大きな池があった。
なんとも無気味な池であった。沼と言った方がいいかも知れない。草木がうっそうと生い茂り、水の色は緑色で、びっしりと藻で水面が埋まっていた。普通貴族のお屋敷の池と言えば、美しい鯉が優雅に泳いでいるものと相場が決まっていた。だが、ここには魚などいそうになかった。
「こちらでございます。」
佐為は危うく飛び上がりそうになった。先ほどの女房が足音もたてず、衣擦れの音もさせずにすぐ後ろに立っていたからだ。
佐為は女房の後をついて、先ほどとは違う廊下をまがった。
「姫様は貴方様を大変お気に召した御様子です。是非また明後日おいでくださいませ。」
佐為はあまり興味がなかったが、恐らく宮中で又太政大臣に頼まれる事だろう。むげに断るわけにも行くまい。
「わかりました。」
佐為はあまり嬉しくなさそうな表情でこう答えた。
翌日、宮中で顔を合わせた太政大臣は大変怒っている様子だった。
「佐為殿、昨日はいかがなされた?」
「昨日…?」
「使いの者をお屋敷に差し向けたと言うのに、どこかに雲隠れ為さるとは卑怯な!」
「ちょ、ちょっとお待ちください、太政大臣殿。私は貴方様のお使いの方に連れられて、昨日姫様と一局打ったではありませんか?」
「何を寝ぼけた事を言っておる?そなたは姫に恐れをなして、どこかに雲隠れされたに違いない!」
「いえ、確かに私は姫様の元に!そしてまた明後日お会いすると約束して参りました。」
「姫はたいそうがっかりしておった。そなたと是非お手合わせしたいと申しておったと言うのに!」
しかし大臣は佐為が、本当に驚いた表情をしているのを見て、怪訝な顔をした。
「本当にそなたは姫と碁を打ったと言われるか?」
「はい。少なくとも私はそうだと信じておりました。」
「姫はどんな様子じゃった?」
「御簾越しでお姿は皆目…。しかし、大変お強うございました。それにしましても、お庭のお池はあまりいい趣味ではございませんね。」
「池?はて、姫の部屋の前には池などござらんが。」
二人は顔を見合わせた。足下に小さな青い蛙がいる事など二人とも気がついていなかった。
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