USA−P in 大阪 2
 ・ 長い長いプロローグ。



 昔の小説に限らず、例えばあさりよしとおや唐沢商会、とり・みき等のマンガにも落語の影響はある
もので、そういう作品に接するうちに落語そのものへの興味はずっとあったのだが何せ伝統芸の世界
だけに蓄積されたものが半端無い。
 落語の源泉は諸説あるが所謂説教節もあった筈なんだが、そうなるとまず仏教思想ってのがある
訳ですな。で、人に聴いてもらうという商売であるが為に流行物を入れる事になって浄瑠璃もネタに
使われるんですがその浄瑠璃ってジャンルには義太夫、竹本、富本、清元、常磐津、新内、河東節
や豊後節等の様々なモノが絡み合い、溶け合った上で洗練されて浄瑠璃ってジャンルになると。
 んで、
その浄瑠璃をも要素の1つとしている歌舞伎も入るわ、さらにお能も入るわ、そこに講談や講釈やら、
事件に本に絵草子に、川柳都都逸その他モロモロ… っと、クスグリにチョイと使うものから噺のネタ
そのものがパロディになってるものまでと実に、実に面白いんだけど面倒臭いっちゃぁ面倒臭い。
 確かに日本の芸能史ってのを全部知る必要は無いし個人では出来ない事ではあるんですが、
「でもどうせだったらある程度は元ネタを知っていた方がより楽しめるよなぁ… 」
 って思うと、なかなかに手を出す気にはなれずにおりまして。

 その煩雑さに加えて舞台の上で演じるという事で演劇要素は海外のスタンダップやスケッチコメディ
や映画の影響とかまぁ言い出すとキリも無いしなぁ… って事で聴き始めてはみたんですが、
「まずは何より名人からがいいかも」
 っと、東京落語四天王の五代目春風亭柳朝、三代目古今亭志ん朝、五代目三遊亭圓楽、七代目
立川談志を中心に聴いてみる事にしたのだがどうにも…  単に知らない、解らないという事もあるの
だが、それ以前に演者がどうにも好きになれない。これが『巧い』とされている人達なのだとしたら?
と思うとあまり聴き込もぅとする気にはどうしてもなれなくて。

 桂三枝がジャージ姿で「ヤングオーオー!」としていたけれど怖かった。桂文珍のあの眼がどうにも
駄目だった。桂三木助の虚ろな顔が嫌だった。笑福亭鶴瓶の落語は観た事も聴いた事も無かった。
TVでのお笑いと言えば漫才かコントで、落語はラジオかNHKか『笑点』といったダサイもの、という
感じに敬遠させていたが、そんな気分に拍車をかけてくれたのが所謂「落語好き」なスノップだった。
 同年代ん中では確かに落語をよく知っているとは思う。多分、お父さんとかのライブラリィもあったり、
自分が本や映画が好きなように落語を聴いていた部分もあるのだろうが、TVなんかで笑ってるそこら
の連中とは違う、というよく解らん優越感の為に聴いているような連中が多かった。
 彼奴らはなる程、よく落語を聴いている。落語に関しての情報も素材も持っている。でも、それだけ。
例えば落語には芝居物といって歌舞伎からネタをとったものも少なくないのだが、彼奴らは落語では
知ってはいるが歌舞伎のは知らなかったりする。そりゃまぁ何もかも経験、体験しなければ解らない、
って事は無いかもしれんし、実際に経験しなくとも解る事だってあるけれど、岐阜の田舎の親の脛齧り
のニキビ面が
「やっぱり志ん生がいいね。。粋だよ」
 って言ってても説得力なんか無いし、女を買った事も無い以前の女友達すらいない童貞が
「金馬の廓噺はいいんだよ」
 と言ったって誰が信用するというのか。
だが、彼奴らはそんな事はこれっぽっちも気にしない。ただただ何代目の誰某がいいだのこの噺は
ナンたらどうたら… 誰もそんなお題目なんか聴きたくない。面白い噺を聴きたい、観たいってだけの
事なのにそういうのは野暮だの粋じゃないだのとせせら笑うのが常で…

 まぁ落語に限った話でもなくて、こういう輩って本にしろ映画にしろ、どんな趣味の世界でもいるもの
ではありますけどね…

「やっぱり自分が好きな作家をフィルターにしたもので楽しむ、ってのの方がいいのかなぁ?」
 っと思いながらも、何処かでそうキッパリと割り切りがつかない気分のまま、話題になっている人やら
を観るようにしてきてみるも、どうにもこうにもノれないのは続いて。
 
 今から思うに多分五代目だと思うんですが古今亭志ん生が何度聴いても好きになれないし、立川流
でやってる事は解るし芸能の継承として立派だとは思っていても談志の演じる落語は好きじゃないし、
二代目桂枝雀のような逼迫した痛々しい窮屈なのも駄目、っと落語を聴くのは敬遠していたんですよ。
 あと番組なりLPなりの構成が好きに慣れなかった、ってのもあるんですけども、それよりどうも
「自分は【噺を聞かせる】って事よりも【演者の個性や人柄を噺で見せる】って事を重視している噺家が
駄目なんじゃぁないのか?」
 っと思うようになるんですが、そうなると通だの何だので持て囃されるタイプの落語家ってのは殆どが
そういう人達に見えてしゃぁない。実際、所作の巧さや間の取り方より「生き様を見せる」タイプの方が
多く、まぁそれなら古典だなんだじゃなくて舞台で一人芝居でもやってりゃいいじゃぁねぇか… どうして
も落語って形式でなきゃ出来ない事より生き様でも何でも勝手に晒してるつもりになってりゃいいじゃぁ
ねぇか、すっげぇみっともなくて恥かしい事なのによぉ… そこらはストリップのオネーさんや夜の街の
オネーさん達なんかナニまで晒す上に、ってしてんのに…

 っと、
まぁ何度か本格的に聴こうとするもどうにもノれない、と言って無視もしきれないままに月日が経過して
いったのですが、そんな私に転機が訪れたのが2006年10月の事でした。
 丁度、新古書店であさりよしとお氏や唐沢商会の初期作品集をまとめて入手する機会があり、それは
それで楽しんだもののやはりそこには落語的な言葉遊びやらが多く使われているのを見て、何となく
昔聴いていた落語の数々を思い出したりもしてまして。またそのちょっと前に妻が京都旅行をした折、
たまたま宿の近くで桂米二氏の落語会があって米二氏の落語それ自体は好みではないもののやはり
生での体験は面白かったという御土産話を聞いて改めて芸能に触れる機会の少ない田舎暮らしの
寂しさ… これが東京や大阪ならば小屋は一杯あるしその近辺でも落語会等は行われているであろう
事を思うと羨ましく思ったりもしていた日曜日の夕方。
 妻も母も用事で出かけてのひとりでの夕食。さて何を食べましょうかねぇ? っと冷蔵庫ん中チェック
をする前に、何となくBGMがわりに居間のTVをつけて適当にチャンネルをかえていくと丁度CATVの
チャンネルの1つSky−Aで『らくごくら』という番組が始まるトコロで
「んじゃまぁこれも何かの縁だよな」
 っと、ソレを聴きながら夕食の準備を始めたのですが、この日は『第三回朝日いつかは名人会』って
企画の前編で、今回は前座さんと二つ目さんだけって構成にまず驚きまして。普通、TVにかかる人と
言えば真打ん中でもベテラン、名人と呼ばれる人達ばかりな事を思うと若手以前の前座、二つ目の
人達の落語を、しかも落語という芸能のオリジナリティを尊重する為にノーカットで放送というこの番組
は随分と無茶と言うか、CSならではのものだよなぁ… っと驚き感心もしつつも
「しかしまぁそうは言っても前座、二つ目さんだろうしねぇ」
 と期待よりは冷やかし気分で夕食の下ごしらえを続けていて、実際前座の柳家緑太氏なんかはもぅ
いかにも前座で覚束ないは噛むわトチるわ、勢いはあるんだけどネタの披露に精一杯でとてもじゃない
がまともに聴く気になれなかったんですが次に登場した三遊亭きん歌氏、にこにことした笑顔の似合う
ころころとした体型と和服の姿の雰囲気を見て「ん?」と気になって手を止めて台所から見てみると、
マクラが酔っ払いのしでかす馬鹿な事をつらっとやられるんですがこれが明るくていい意味で軽い。
どちらかと言えば馬鹿にして笑い者にする高みから見た感じになる事が少なくないネタが何と言うか、
全くの他人事ではなく何処かしら自分事のようにも見えるような明るさとユーモアの似合う感じで好感
を持ったところで始められたのが『親子酒』。酒好きの親子の馬鹿な様をマクラ同様に明るく朗らかに
最後まで続けてみせたのはやや一本調子に見えなくもないが、こんな明るく笑えて湿度の低い『親子
酒』ってのは若手だからってのもあるけど個性なんだよなぁ… 何より前座さんとは本当に芸の腕が
違うのがよく解って、
「それじゃぁ次に出る人はどうなんだろう?」
 と夕ご飯の支度をほっぱらかして居間に移って見る事にすると出てきたのは五街道佐助(当時・現在
四代目隅田川馬石)氏での『明烏』。堅物の若旦那を心配した親父さんから頼まれた遊び人二人が
若旦那を騙して吉原に行くというこの噺は好きだったのだが、どうも今まで聴いてきた人達ではピンと
こないものになっていて、結局若旦那が20前後、遊び人二人も20代中盤からよくいっていても30前
くらい、相手をする花魁も18歳って設定の噺なんだけどどれもクドくてその歳のものに聴こえないって
のがあったからなんですが、初めてそう思っていた自分にピタッ!っとくる演じられ方で、余計な個性だ
生き様だのの前にまず噺としての面白さをちゃんと伝えようという姿勢に技術がやや追いついていない
部分も込みで素直に最後まで観てしまって笑っていて。と言って朗読ではないし、芝居でもない、落語
という形式ならではの味がちゃんとあって、しかもそれはこの五街道佐助という人となりがあって…
 っと、翌週の再放送の際に無理矢理に妻にも見せたらこれが大喜び。更にその翌週の後編で彼ら
を選出した柳家花録氏の『不動坊火焔』、前座、二つ目に見せ付けるかのような熱演ですが噺は長屋
のマドンナと言うべき未亡人を巡ってのドタバタをクドくならずスラップスティックに演じられたのがダメ
押しになりまして以後『らくごくら』という番組をメインに落語を観る機会が私ら夫婦の日常に入る事と
なりまして、林家染二柳家喬太郎、といった私らにとっての御贔屓が出来るだけでなく、噺による
演者の違いも楽しみになってきます。また『らくごくら』が主に関西の落語家さん達がメインなので同じ
構図やオチの噺(例『貧乏長屋』と『長屋の花見』ナドナド)でも関東と関西の違いやらも解ってきて、
そうなるとまた楽しく…

 世間でも落語ブームだとは言われていたものの、例えばそのキッカケになったTVドラマの『タイガー
&ドラゴン』ではピクリとこもなかったし、むしろ観ていて腹が立って観ておらず。
 意識的に落語も観るようになってからもやはり名人と言われる方はあまり好きにはなれずにいて、
例えば五街道佐助氏の師匠・五街道雲助氏が『明烏』を演るってんで観たんですが、確かに巧いん
だけども、これがどうにも自分の好みではない。客層とか体調とか色々な条件の違いもあるから別の
高座で観ればまた違うかもしれないんだけど、どうもそれ以前にあまり自分の好みではないらしい。
いや本当に巧いとしか言い様が無いし、師匠だけあって弟子に所作やらが伝わっている部分も楽し
かったんですが、しかし好みではない感じがして…

 っと、経過していく中で『らくごくら』で第四回朝日いつかは名人会が放送されまして。
この回は立川流という事で前座に何とこれが初舞台という立川こはる、続いて立川志ら乃立川笑志
と続いて立川談春という構成で。ただ私は立川流家元の立川談志が好きじゃぁない。ハッキリ言って
嫌いなんです。非常に真面目な方だとは思うし、芸に対する取り組みは家元制度の厳しさと理不尽さ
も含めて正しいと思うのですが、「立川談志」というギミックの上でのってのが邪魔くさいのと、多分本来
のシャイさ、照れ屋やらとこれまた生来あるサービス精神、真面目さ等がいい相性になってるとは私に
は見えないんですよ。立場とかそうなる事情、歴史はあったとは思うし、それらの相性の悪さと巧く折り
合いがつくならそれは談志ではないんだろうけども、しかし観ていて苛ついてくるというか、気に障る
ばかりで演者としての巧さや噺の解釈等の良さも鼻について… という人の弟子だけにさて… っと、
思っていたのですが前編の立川こはるさんの『道灌』、立川志ら乃氏の『崇徳院』、そして立川笑志氏
の『寝床』はどれも気持ち良く聴けたんですよね。そりゃまぁ技術的には足りない部分や物足りなく思う
部分もありますが、二つ目昇進に落語50席と都々逸・長唄・かっぽれなどの歌舞音曲を、真打昇進の
時には落語100席と歌舞音曲をマスターした上で家元が認めなければいくら年月を過ごそうとも二つ目
昇進すら無いというだけに所作や技術がしっかりしているのがよく観てとれましてな。で、その上である
真打の立川談春氏というのはどういう演目をするのか?っと後編を期待をしていたんですがこれが…
 
 マクラ無しで入った御噺は『紺屋高尾』。探っているのか非常に静かな入り方で、オドオドしている様
に見えなくもない静かな立ち上がり。声を意識的に張らないように、訥々としたスタートだったのだが、
何て言うんでしょう? 演者の気持ちや意識の高まりにこちらも思わず居住まいを正してしまう。大袈裟
ではないが解り易く無駄の無い美しい所作。次第に帯びる熱、気迫はしかし演者の為ではなく噺の為
であり、だからこそそこに立川談春という演者が浮かび上がって。
 その浮かび上がってきたものが美しい、と言うか、素晴らしいなぁ… っと観終えて感嘆。

 人によっては嫌う人もいるだろうなぁ、とは思う。落語を狭義の伝統芸とする人からするとこれも落語
ではあるが伝統芸として正しい、真っ当なものか?という点で違うとするかもしれない。芸の上に芸人
があるその姿を、演じる雰囲気や気分や空気こそが落語だとする人には端正なものとしてやはり好ま
れるとは言い難いものだと思う。
 が、自分は立川談春という人も、好きになった。
自分にとっての落語とは何か? それはやはり語りの芸であってその為の技術は当然必須していて
もらいたいのだが、勿論それだけで終わればただの朗読、舞台劇と大差ない。と言うか、落語で表現
しえない事なら芝居になろうがマンガにしようが小説、映像、っとそのしたい事に合った表現行為なり
活動なりをするべきではないかと思うが、あえて伝統芸能の落語という形式でするならばまずすべき
なのは演者の個性の発露、露出ではなくやはり噺、伝統として伝わってきたものを客に伝える事では
ないのか? と思っているんですね。だから理解出来ないのは客の方が悪い、その上での演者の解釈
や個性ならばいいが、まず演者の都合や気分といった事があって噺は演者の為の脚本、一席は演者
の為の舞台ってするならそんなの落語でやらなくて結構だと思う。
 何故、落語なのか。落語でなければならないのか。どうしてその噺を演じるのか。ただ単に先人の型
を踏襲すればいいというものではないが、と言って軽視するものでは無い。まず伝統、その上で、だか
らこそ抑え切れずに滲み出て、溢れるものを芸人としての業、欲が私は観たい。
 そういう私にとって立川談春の落語もまた1つの理想に近いものなんですよね… 技術があり、姿勢
が良く、それでいて談春ならではの味があり、迫力がある。あぁ、同じ時代にこういう人達がいて、こう
して出会えるとは何と素晴らしい事か…


 っと、長い長い前置きはさておき。

 何となく気になり出すのにまるで合わせたかのような巡り合わせというものはあるもので、私が落語
にハマるちょっと前に大阪に落語のための寄席・天満天神繁昌亭がオープンし連日大賑わいとなって
いるってニュースを散見するようになり、
「そりゃぁ寄席の数なら東京かもしれんが近いのは断然大阪だもんなぁ… それに繁昌亭以外にも
ワッハ上方やB1角座等、落語イベントにも不自由しないもんなぁ大阪も… 」
 と思いつつ過ごしていた5月末、
「夫! 談春さんの独演会が大阪の繁昌亭でやるんだって! どうする!?」
 と妻に言われて橋本真也ではないが
「時は来た!」
 と自分の中でハマる感覚があった。
ただ会社勤めの身で土・日の夜の公演の両方観賞ってのは難しいので一応土曜日のみチケットを
妻に予約してもらう事に。金融業界の端くれにいる身としてはボーナス商戦でもある6、7月は忙しい
時期で休日を獲得するのも危ぶまれたがそこもクリアーして前日からの大阪入りも可能になる。
 じゃぁついでに何か他に観劇するものは無いかな? と調べてみると20日金曜日はなんばグランド
花月に私ら夫婦がお気に入りの若手漫才コンビの1つ・麒麟が出演する上に前日予約購入しようが
当日に購入しようが一律¥4500って団体客以外はナメてるとしか思えないNGKにしては珍しく金曜
レイトショーという企画で金曜日最後の上演回は¥3500って事もさりながら、麒麟がこの週出るのは
金曜日まで、この日を逃すと今月はもぅ出演予定無しって事で予約をしてみれば早かった為か前から
三列目というナカナカの席で。加えて中田カウス・ボタンや月亭八方など興味のある人達もいるしで
これはこれで楽しみで。
 また翌21日の朝には桂三風氏による『客席参加型落語体験ツアー』なるものがあってどうやら初心
者向けの落語のガイドみたいなもの? って事でこちらも予約。

 そうなると公演と公演の合間をどうしよう? そう言えば天神祭りは24日と25日だが、あれだけの
規模の祭り前に天神商店街が何もしていないって事もなかろうし… って前に、前回の大阪旅行ん時
は食べ物屋であんまりいい思いをしなかっリベンジも果たしたいし…

 って私だけでなく、

 妻も10年前くらいに当時大阪で勤めていらした義兄のもとへ義母様と大阪に行きはとバスでの観光
地巡りはしたそうなのだが、あまりいい思いをしなかったそうで。大阪以外の人間に対して露骨に顔を
覗き込むように見るのや街の熱さ、その他モロモロがあって観光した場所の記憶もあまり無いくらいに
どちらかと言えば避けるようにしていた程で。
 そんな妻にとっての2度目の大阪旅行は御贔屓の談春と麒麟だけではなく食道楽や古い神社仏閣
本来妻も好きな事だが苦手な街故に行かなかったし行けなかった場所への旅でもある訳で。
 そして…
東京で10年以上暮らしていて、友人に落語好きがいて新宿もよく寄っていたし落語にまるっきり興味
が無い訳でもなかった筈なんだけど何となく聴く事はしてこなかったという妻にとっても
「時は来た!」
 というものなのかもしれなくて。まぁこれは当人じゃないから解らんけど。

 巡り合わせとかタイミングとか、間としか言い様が無い事ではあるが、今回の旅行はまさにそれで、
行こうと思えばお互いにいつでも行けたし、聴く機会だってあった。でも、そうはならなかった。だけど
今回は行く事になり、次々に色々な事柄がハマっていく中で気分が盛り上がり、準備が進み、そして
18日に道頓堀次郎様からタコ焼きのオススメ店のメールを頂いた時、気分は整った。会社の休む為
の準備も気持ち悪いくらいにスムーズに済み、ホテルの手配もとっくに完了していて。旅行資金も万全
とは言えないが窮しカツカツにしないとやってられないような状態でもなし。
 既に前回の大阪旅行があるから大まかな地理感覚は自分の中にある。後は天気がどうなるか?
だけだが雨女の妻と雨は降らせない男の私でさて… と目覚めた朝は曇り空だった。



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