武藤金義 少尉

「空の宮本武蔵」と称えられた武藤少尉は1916年(大正5年)6月、愛知県の貧しい農家に生まれた。

 1935年(昭和10年)6月に呉海兵団に入団し、短期間だが駆逐艦「浦波」に乗艦する。進級がはやい航空兵を志願して操縦練習生に合格、

1935年(昭和11年)1月第32期操縦練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊、1936年(昭和12年)7月に卒業し、大村空で延長教育を受けた。

日中戦争の開戦とともに12空付として実戦に参加し、1937年(昭和12年)12月4日南京上空でソビエト製のイ-16を撃墜したのが初戦果であった。

漢口上空で空中戦を続け、大陸でさらに撃墜4機を加える。1938年(昭和13年)4月30日、顕著な戦功に対し表彰を受けた。

太平洋戦争の勃発時、武藤二飛曹は3空に属し、開戦当日にフィリピンのイバおよびクラークフィールド攻撃に参加。

その後、部隊とともにオランダ領東インド諸島での作戦に従事したが、同方面の作戦終了にともない、1942年(昭和17年)4月に本土へ帰還した。

 同年11月、252空付としてラバウルに着任、ソロモン諸島と東部ニューギニアで熾烈な戦闘を繰り返し、戦果を重ねた。

1943年(昭和18年)4月にはふたたびその顕著な戦功に対して勲章が授与された。

1943年11月、「金ちゃん」は横須賀航空隊に転勤し、本土に帰還、日中戦争での同僚の坂井三郎飛曹長とともに後進の指導にあたる。

しかし1944年(昭和19年)の夏までに戦況は悪化の一途をたどり、鎮守府直轄の横空も硫黄島に進出することになった。

 6月24日、ヘルキャットが硫黄島を攻撃し、信じがたいほど一方的な戦闘で、米軍は零戦をほぼ全滅に追い込んだが、

武藤飛曹長と列機は、米艦艇に対する特攻とでもいうべき片道挺身飛行を命じられて出撃した。

目標への接近途上、ヘルキャットに迎撃されやむなく進撃を断念して空戦を切り抜け基地に戻った。

硫黄島派遣隊の残存搭乗員はまもなく撤退し、本土に帰ってきた。

帰還後、首都圏の防空に従事し、1944年11月にB-29による本土関東への爆撃がはじまると、超重爆の大編隊に対し果敢にいどんだ。

 1945年(昭和20年)2月16日、米海軍の艦上機によるはじめての本土空襲に際し、武藤飛曹長は横空審査部で実用実験中の紫電改を操縦して、

同僚とともに厚木上空で戦った。武藤飛曹長はVF-82のF6Fヘルキャットと熾烈な空中戦を行い、4機を撃墜した。

武藤飛曹長の、卓越した神技ともいえる空戦技量は、剣豪・宮本武蔵の一乗寺下がり松の決闘をほうふつとさせる空中戦であった。

とどまるところのない敗北の淵にあって、さえない記事ばかりを掲載していた日本の新聞には、武藤飛曹長のこの活躍がかっこうの材料となった。

戦果は誇大に報じられ、飛曹長は単機でF6F 12機を撃墜、4機を撃破したという神話になった。その神話は一部今日まで伝えられている。

6月には343空司令源田のたっての願いにより、4月に戦死した343空のエース、杉田庄一上飛曹の後任として343空戦闘301飛行隊付を命じられた。

 7月24日、戦闘301に転勤して最初の戦闘に参加した武藤は、豊後水道上空から帰投しなかった。

この日、戦闘301の任務は呉軍港の停泊艦艇を攻撃に襲来した米艦上機を、その帰途において攻撃することであった。

 1980年代の調査によれば、武藤飛曹長の区隊は、空母に帰還する本体から遅れていたVBF-1のF4Uコルセア2機と遭遇、

瞬時にロバート・J・スペックマン少尉の機を撃墜した。

単機になったロバート・アップルゲート中尉機が空戦に入り、追い詰められたとき、VF-88のマルコム・ケーグル大尉と

列機のケン・ネイヤー中尉の操縦するヘルキャットが、コルセアの応援に駆けつけてきた。ネイヤー中尉も撃ち落されて、残った2機で空母に帰投しようと戦ったが、

アップルゲート機もついに撃墜され、被弾したコルセアからパラシュート降下で脱出したのち、救助された。ゲーグル機のみが母艦への帰投を果たすことができた。

この戦闘中に、アップルゲートとゲーグルは紫電改3機を撃墜した、と報じており、そのうちの1機が武藤機であった可能性が高い。

アップルゲートとケーグルのどちらかがこの偉大なエースを撃墜したかは不明である。

なおこの日、343空は武藤のほか指揮官鴛淵大尉ら6機が未帰還とった。

武藤飛曹長は死後、昇進して少尉となった。総撃墜数は判然とせず、28機前後とする研究者もいれば、35機以上とみなすものもいる。



関連書籍等

「紫電改の六機」 碇義朗 著