坂井三郎 中尉

 日本のもっとも著名な零戦エース、坂井三郎氏は自らの戦時中における最大の功績とは、60機以上の敵機を撃墜したことではなく、

200回におよぶ空中戦で一度として列機を失わなかったことだ、と述べている。

1916年(大正5年)佐賀県の貧しい農家に生まれ、1933年(昭和8年)5月、学校生活での失敗をそそぐため海兵団に入団した。

 水兵として戦艦「霧島」に乗務するが、飛行機に魅かれ、搭乗員を志す。2回の受験に失敗したのち3回目に合格、操縦練習生となった。

1937年(昭和12年)11月、操練を首席で卒業、恩賜の銀時計を授与された。

 12空の一員として日中戦争に参加、最初に加わった空中戦で初撃墜を記録したのは1938年(昭和13年)10月5日のことであった。

坂井三郎空曹は15機の九六艦戦の一機として漢口空襲に向かう途中、イ-16の襲撃を受ける。

坂井三空曹は教科書に書かれていた規則をどれも守らず、危うく撃墜されそうになった。結果的に坂井三空曹は銃弾をすべて使い果たして敵機を撃墜するが、

基地に帰るや初撃墜を祝福されるどころか、その拙劣な行動を指揮官からこっぴどくしかられてしまう。

 坂井ニ空曹は1939年(昭和14年)10月3日、すでに日本軍が使用していた漢口飛行場が12機のソ連製SB爆撃機の奇襲を受けたとき、

その追跡ぶりに搭乗員としての円熟さを発揮した。傷を負いながらも九六艦戦に飛び乗ったニ空曹ははげしい追跡を行なった。

270キロにもおよぶ追撃戦の結果、ついにそのうちの1機を撃墜したのである。勇敢な攻撃のニュースは日本にも届き、坂井ニ空曹は故郷に錦を飾った。

 1941年(昭和16年)7月、一等飛行兵曹になった坂井三郎は台南航空隊に配属となった。

そして太平洋戦争の初日にフィリピンのクラークフィールド空襲に参加することになる。

このとき坂井一飛曹は2機のB-17を地上で撃破し、P-40を1機撃墜したと報告した。

ただし、サム・グラシオが操縦していたこのP-40のほうは、翼に大穴を開けられながらもかろうじて撃墜をまぬがれた。

 12月10日、坂井一飛曹ははじめてB-17と空中で相まみえ、この14thBS(第14爆撃飛行隊)のB-17を撃墜。

日本の搭乗員たちは「空の要塞」の大きさを目の当たりにして衝撃を受けた。

 フィリピン占領後、台南空のオランダ領インドの作戦に参加し、そこで一飛曹はふたたびB-17と遭遇する。

「B-17には弱点というものがありませんでした。いつも危機一髪という感じでした。とくに私が覚えているのは1942年2月、ボルネオのバリクパパンでのできごとです。

まだ私が爆撃機を攻撃するための方法を何も見つけていないときで、7機のB-17に対して2機の零戦で立ち向かいました。

私は考えられる全てのことをしましたが、まったくだめでした。何も効かなかったのです。」

 1942年2月28日、坂井一飛曹はジャワのスラバヤを1機で哨戒飛行中にDC-3に遭遇した。

ゆっくりと飛ぶDC-3を、撃墜する前によくみようと横付けした一飛曹は、金髪の女性と小さな子供が胴体の窓越しに零戦を凝視しているのに気がついた。

坂井一飛曹はその輸送機を攻撃せず、見逃した。

1942年4月、台南空はラバウルに移動した。ポートモレスビーを根拠地にしているアメリカ軍、オーストラリア軍とやりあうために、

零戦の搭乗員はラバウルとラエの間を行き来することになった。

 坂井一空曹はまた、下士官搭乗員を消耗品としかみていない士官連中の個人的な戦いをも指揮した。

粗末な食事で禁煙を課せられている部下を焚きつけると、士官室から煙草を失敬させて、喫煙することを許したのだ。

懲戒と道徳的問題との相克に直面した部隊の指揮官は、状況の改善を指示した。

 笹井中隊の先任搭乗員として、坂井一飛曹は中隊員たちに空中戦の技術を仕込んだ。その多くの者たちがのちにエースとなった。

 1942年7月22日、8機の零戦がブナ上空の支援作戦の際に、単機で飛行していたオーストラリア空軍No.35Sqn.(第32飛行隊)のハドソン(コードA16-201)を見つけて攻撃した。

落としやすいと思った坂井一飛曹はウォーレン・F・コワン少尉の操縦するこの双発爆撃機を追跡した。

ところがこの勇敢な爆撃機は坂井機に向かって突っ込んでくるではないか。8対1と数では劣っていながらコワンは戦闘的で、

坂井一飛曹に撃墜されるまで零戦の編隊をふりまわした。

この戦闘の唯一の生き残りである坂井氏は1997年(平成9年)にオーストラリアの国防相へ、コワンとその搭乗員たちは充分に勇敢であり表彰されるべきである、

と書き送ったが、拒絶された。

 1942年8月7日、最初のガダルカナルへの長距離作戦飛行で、坂井一飛曹はのちにエースとなるVF-5のジェームズ・J・サザーランド大尉の乗ったワイルドキャットを撃墜。

サザーランド大尉はパラシュート降下して助かっている。

坂井一飛曹がふたたび戦場に戻ったとき、VS-71(海軍第71索敵飛行隊)のダドレー・H・アダムス大尉のドーントレス急降下爆撃機に不意討ちされた。

ドーントレスのパイロットは零戦の操縦席に銃弾を撃ち込むのに成功し、その銃弾はもう少しで坂井一飛曹の頭を吹き飛ばすところであった。

反射的に一飛曹はドーントレスを撃墜した。この戦闘で銃手のハリー・E・エリオットは戦死、アダムス大尉はパラシュート降下して助かり、

のちに海軍十字章を受けることになる。

 この戦闘ですでに2機を葬った一飛曹は、遠方に8機のワイルドキャットを見つけ、撃墜するためにスロットルを開いた。

しかし、彼がワイルドキャットだと思ったのは、カール・ホレンバーガー大尉に指揮されたVB-6(第6爆撃飛行隊)のドーントレス急降下爆撃機であったのだ。

それが罠だと気づいたとき、ドーントレスの後部銃手たちが7.62mm 2連装旋回機銃の火ぶたを切った。

日本海軍のエースは集中砲火をあびてひどい傷を負いながらも、4時間半にもおよぶ飛行のすえラバウルへ帰りついた。

基地ではすでに坂井一飛曹が戦死したものとしてあきらめていたところだった。この負傷で彼の右目は視力をほとんど失い、本土の病院へ送還されることになった。

 負傷から回復した坂井少尉は大村空の教官として勤務した。若い生徒たちに教えていた科目は、搭乗員を大量に養成するため短縮されたものだった。

少尉は決してこの任務に満足してはいなかった。

 1944年(昭和19年)6月、坂井少尉はとうとう前線に戻った。横須賀航空隊の一員として硫黄島に出撃したのである。

6月24日、少尉はVF-1およびVF-2のヘルキャットと空中戦を行い、3機を撃墜した。しかし23機の零戦が帰還しなかった。

侵攻してくる米軍に対し、流れをかえる望みを失った横須賀空は事実上特攻といえる出撃を命じられた。

7月5日、坂井少尉は片道攻撃に出撃。9機の零戦が8機の天山艦攻を掩護して成算のない攻撃に出発した。

目標につく前にヘルキャットに襲撃された坂井少尉は、攻撃隊の掩護に専念し空戦をしてはならぬという命令に反して空中戦に入り、1機のグラマンを撃墜した。

しかし掩護の努力もむなしく、天山艦攻隊はあっという間に撃墜されてしまった。

坂井少尉と2機の列機は、暗くなり始めた戦場を去り、悪天候と燃料不足に悩まされながらなんとか硫黄島の基地にたどりついた。

24時間ののちに、坂井少尉と生き残った搭乗員は日本に帰り、少尉は戦闘任務を与えられることなく、教育任務に戻った。

 1944年の12月、343空付に補され、少尉は紫電改に乗る搭乗員を教育することになる。

 1945年(昭和20年)8月17日、すなわち玉音放送の2日後、坂井中尉は東京上空を写真偵察に来たB-32ドーミネーターに対して、

横須賀航空隊の他のパイロットとともに出撃した。これが偉大なエースにとって最後の戦闘になった。

坂井三郎氏本人の判断によれば、彼はその搭乗員としての経歴中に60機以上を撃墜している。

 戦後は、東京に在住、執筆活動や講演を行なった。2000年9月逝去。著書「大空のサムライ」は各国語に翻訳され世界的ベストセラーとなっている。
関連書籍等

「大空のサムライ」 坂井三郎 著 その他著作多数