第343航空隊 2代 剣昭和19年12月25日、松山基地で編成され、同時に25航戦(3航艦)に編入された。
当時、最新鋭の紫電改によって制空権を回復しようと、戦闘機出身の軍令部作戦課航空主任 源田実大佐の着想によって創設されたもので、
司令には源田大佐自身が転出着任し、副長 中島正中佐(のち、相生高秀中佐)、飛行長 志賀淑雄少佐と、幹部は全員戦闘機出身の有力者を配置し、
飛行長以下の操縦者も、歴戦の優秀者を各隊から選抜し、当時の海軍戦闘機隊では、もっとも高い錬度を保持した。
基幹となったのは戦闘301(飛行隊長 菅野直大尉)、戦闘701(飛行隊長 鴛淵孝大尉)、戦闘407(飛行隊長 林喜重大尉)の3飛行隊で、
定数は各48機で、編成と同時にそれぞれ松山、大分、出水各基地で練成に入り、20年1月末までには3飛行隊全部が松山に集結した。
また、1月には、比島から帰還した若干の生存者を基幹に再建中の戦闘401(飛行隊長 浅川正明大尉)、
戦闘402(飛行隊長 藤田怡与蔵大尉)両飛行隊が編入されたが、後者は3月に601空へ移り、前者は若年搭乗員の練成飛行隊として、徳島基地へ分遣された。
343空の特色は、邀撃線の効果を高めるための事前情報入手を重視して、高速偵察機「彩雲」を装備する偵察4飛行隊(飛行隊長 橋本敏男大尉、定数24機)
を付属したことであった。
そのほか源田司令の強調した点は、編隊空戦の重視、空中無線電話の改善、対戦闘機戦闘における勝利の確保であり、
士気を高めるため、各飛行隊に新撰組(301)維新隊(701)、天誅組(407)、奇兵隊(偵4)の通称を付し、隊舎の前に幟を立てるなど精神主義も強調したが、
運用思想はがいして科学的、合理的で、米式感覚を大幅に取り入れていたと評せよう。
機材、人員その他の手当ても最優先的に処遇され、日本海軍最後の切札的存在と言えた。
編成時は紫電改の供給が間に合わず、紫電によって練成していたが、戦闘301を筆頭に2月中旬から逐次紫電改への機種改変を開始し、
3月中旬には大部の改変を終わって、16機編隊の編隊空戦が可能となり、3月18日から始まった米機動部隊の西日本来襲を迎えた。
当時の保有操縦者は170人で、うちA級の技量保有者は35人であった。
19日早朝、呉地区への大挙来襲を察知した343空は、彩雲を四国南岸上空に派遣して哨戒線を張り、3コ飛行隊計54機の紫電改を列線に待機させた。
午前6時50分、彩雲の高田満少尉機(戦死、全軍布告)から敵艦乗機郡の北上が報告され、先任指揮官鴛淵大尉を先頭に全機離陸し、
9時30分まで反復してF6F、F4U、SB2Cの編隊を補足し、有利な空戦を進め、戦闘機48、艦爆4を撃墜した。
衰退状況にあった当時のわが軍としては画期的な大戦果で、わが方の損害は、自爆・未帰還16機、地上炎上5機のほか、若干の不時着機を出した程度にすぎなかった。
この日の空戦で19人の米操縦者が捕虜となったが、343空の空戦技術を高く評価していたと伝えられる。
4月、沖縄戦の開始とともに、343空は源田指令が率いて8日鹿屋基地に進出、5航艦長官の指揮下に入って(5月5日付で正式に編入)、12日からの菊水2号作戦に参加した。
紫電改の航続力不足で、沖縄本島までの進攻は困難であったが、6月22日までの間に、鹿屋、国分、大村を基地として奄美大島、喜界島方面に6回出撃し、
特攻隊の突撃路啓開をはかり、そのつど敵戦闘機と交戦し、有利な空戦をすすめた。
この間の出撃機数165機、撃墜106機に対し、わが方の自爆、未帰還29機と記録され、このほかエンジン不調、被弾等で不時着した機も少なくなかった。
また4月18日から5月11日まで第1国分基地で、南九州に来襲しはじめたB-29の邀撃に重点をおき、延べ120機を発進して12機を撃墜したが、
紫電改の20ミリ砲4門で編隊攻撃を加えても撃墜は容易でなく、わが方も林大尉をふくむ自爆3、不時着7、地上大破15の損害を出した。
さらに5月3日、343空は大村に後退して、五島列島方面に飛来する飛行艇攻撃にあたり、5月中旬に4機を撃墜した。6〜7月に入ると、
熟練搭乗員の数も減少し、機材の補給も不十分となり、とくに沖縄からB-24が爆撃に来襲するようになってからは、地上被害が増加し、
343空の実働機数は20前後に落ち、5航艦の方針で兵力温存策がとられた。しかし好機に応じて全力出撃する機会もあり、
とくに6月2日の鹿児島湾上空空戦では、戦闘407飛行隊長に新任した林啓次郎大尉の指揮する21機が有利な態勢からF4U24機の編隊を奇襲、一方的な空戦で18機を撃墜した。
また7月24日の豊後水道上空空戦では、16機撃墜の戦果をあげ、御嘉賞の言葉を受けたが、わが方も鴛淵大尉、武藤少尉を含む4機を失った。
その後は大規模な空戦はなかったが、林大尉(6月22日)、菅野大尉(8月1日)も戦死して、主要幹部は壊滅したまま終戦を迎えた。
源田大佐の記録によると、343空約半年の戦績は、撃墜約170機に対し、わが方の操縦者喪失74人であった。
関連書籍等
「海軍航空隊始末記」 源田実 著
「源田の剣」 ヘンリー境田・高木晃治 共著
「最後の戦闘機 紫電改」 碇義朗 著