●●●●●● 大西重成 〜 表現方法の変遷(1976〜1989) ●●●●●●
|
1976年〜 25歳の時に渡米し、スクール・オブ・ビジュアルアーツ(SVA)で1年間勉強して帰国。 アートディレクターは何れも石岡瑛子さん。仕事の厳しさをたたきこまれ、自らの力のなさを自覚した時代。 THE PENTAGON のアルバムカバーの裏面、表面には生卵が5個描かれている。 |
|
1978年〜 写真をコラージュして、エアブラシで作品を仕上げた。 実際にはあり得ない光景を作り出すことでビジュアルショックを得ようとしていた時代に、写真さながらに描けるエアブラシの技術が多用された。 HARBIE HANCOCK からの、直接指名で描いたアルバムカバーの作品は、金粉を塗った足と、ガラス玉の写真を別々に撮って合成。 |
|
1980年〜 個人的にどうしても描いておきたいと思った作品群。 どうすれば認められるか、他人が自分に振り向いてくれるか、ということに躍起となっていた時代。不安の裏返しで表現が過激になった。フランスの過激派、ルル・ピカソらと並び評され、評価を得たが、仕事は減った。 |
|
1982年 ニューメディアが巷の話題になり始めた頃、様々な雑誌がこのCG作品に興味を示し、次々に特集を組んだ。 しかしそれは芸大旋風が吹き荒れる中、次々に登場する若手イラストレーター勢力に対抗しうる新表現を模索した結果でもあった。 この頃はブームというものの盛衰を静観する事を学んだ時期でもあった。 |
|
1982年〜1984年 エアブラシ、コンピューターと表現手段が変化してきて、久しぶりに自分の手で何かを表現したいという欲求が強くなった時期。 しかし、筆で描くのではない表現の試み。 |
|
1984年〜1987年 自分だけでできる世界への回帰。本来絵は一人で描くものだが、広告の世界、特にCGなどでは共同作業が多く、人間関係に疲れることも多かった。 同じブラシでも、今度はプリミティブなフォルムをソフト・タッチで描くスタイルに変わった。 これは現在まで変わらないイラストレーションに対する基本姿勢となった。 |
|
1987年〜 アートディレクターの原耕一さんから、ソフトエアブラシによる作品を立体にしてみないかという話が持ち込まれた。 考えたこともなかったが、話にのせられた格好で取り組んだのが「サラリンソフト」の仕事である。これが現在の立体の仕事につながった。 作品を見た人が「カワイ〜」と言ってすぐに反応してくれる。 |