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 足下が、水に浸かっていたため、その人の動きに合わせて水面がさざめく。
 カインが立ちつくしていると、漏れ出る空気のような、声が聞こえてきた。
 「・・・」
 しかし、あまりに小さくて、カインには聞き取れない。
 我に返ったカインは、歩み寄った。
 いや、レジンなわけはない。 
 レジンの髪は、冷たいくらいの銀の髪で、こんなふうに、陽に照らされたからといって、はちみつ色になることはないし、なによりも、背中を覆うほど長くはない。
 瞳だって、本人はブルーグレーだと主張していたが、グレーの方が勝っていて、これ程までに、ブルーが勝ってはいなかった。それは、森の中でも平原の中でも、部屋のランプの下でも。
 それに・・・
 カインは、腰を落とすと、手ぬぐいを取り出し、目の前で、自分を睨みつけている人物の額の汗を拭った。
 「洗濯したてですから、どうぞ、気になさらないでください。」
 レジンと打ち合いをした後なら、その手ぬぐいも、汗でぐっしょりというところだが、ここしばらく、それはない。
 一度目を閉じたその人は、浅くため息をつくと、もう一度口を開く。
 ようやっと聞こえた声は、泉の水のように澄んでいて。
 そして、カインは、レジンと見間違えた戸惑いも忘れ、心の芯まで捉えられてしまっていることを知る。
 「来るなと言ったのに・・・。」
 そんな言葉であったのに。
 「フェラーニンは、足腰を冷やすべきではないと聞き及んでいます。泉の水は、まだ、冷たすぎると思いますが。」
 騎士たるもの、フェラーニン(女性)には、あくまで優しく心を尽くすべきであると、事ある毎に躾込まれてきたが、そんなにまでする必要があったのかと、不思議にさえ思ってしまう。
 目の前の、苦しげな面差しの彼女を見れば、愛おしくて、いたわりの心を持たずにはいられなかったのだから。 
 そう、カインは、この時、初めて、それを知ったのだ。
 恋・・・というものを。
 
 娘は嫌がったが、カインは、泉に浸された彼女の足を引き上げ、そっと草の上に置いた。
 長いローブの裾が、濡れている。
 それを「失礼」と断って、絞り出す。
 どこか具合が悪いのか、苦しげな娘は、カインに制されると、泉に体を浸すことを諦め、柳の木にもたれかかって、目を閉じた。
 彼女の汗を拭った衣を、泉に浸して絞ると、カインは、彼女の傍にひざまずき、絶えず浮かぶ汗を拭う。
 ひんやりとした衣が心地よいのか、娘の顔が、瞬時ほっとする。
 それに気をよくしたカインの衣を持った手が、額から、こめかみを拭っていただけだったのが、幾度目かに、頬、そして、首筋に触れた時、彼女の体がぴくりと動き、閉じられていた目が開いた。
 と、同時に、カインの体の中を、感じたことのない熱が駆けめぐり、二人の動きが止まった。
 ブルーに近いグレイの瞳が、怯えとも、悲しみとも、何とも言いようのないものを浮かべながらも、呆然としている。
 そして、鳶色の瞳には、恐らく、今まで浮かべたこともなかっただろう、熱がこもっていた。
 娘の唇が、微かに動く。
 けれど、声は、風にさえ、さらわれることはなかった。




 
 無理な姿勢ではあった。
 それに、彼女は、ことのほか、熱があり、抱きしめた体も、腕を回した首筋も、そして、重ねた唇も、燃えるように熱くて。
 普段のカインなら、この時点で、いや、もっと前の段階で、彼女の具合が悪いことくらいは、わかっていたはずだった。
 いや、もしかしたら、わかっていたのかも知れない。
 けれども、湧き上がる衝動を抑えることなど出来なかった。
 フェラーニンに、唐突に、こんなことをすればまずいだろうとか、お互いに名乗るべきだろうとか、彼女に出会うまでのカインならば、躾込まれたものとして、いろいろなものが頭の片隅に浮かんだはずだろうに、もっと大きな波が、そんなものの存在を蹴散らしてしまっていた。
 彼女の喉が、苦しげな声を漏らし、ささやかな抵抗が、カインの胸を叩く。
 けれど、しっかりと彼女を抱きしめるかカインの腕は、ゆるむことはない。
 娘の目尻に、小さな滴が浮かぶ。
 呼吸が苦しいのか、彼女の唇が、空気を求めて開いた瞬間、口づけが深くなった。
 鳶色の瞳は閉じられて、無心に、彼女の熱を貪っている。
 けれど、ブルーグレーの瞳は、涙を滲ませながら、悲しげに、遠くを見つめた。
 そして、そっと、まぶたを閉じると、滲んでいた滴は、頬を滑り落ちる。
 その瞬間、声にならない声を上げて、カインが、彼女から体を離した。




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