岸 花


 「ほな、和葉によろしう・・・。」
 そう、言い残すとあいつはうっすら笑みをたたえて俺の視界から消えた。
 ・・・お前が女やなかったら、殴り倒してる!
 気が付くと、握った拳が震えとった。
 なんちゅうこっちゃ。なんちゅうやっちゃ。
 俺の頭ん中に、ガキの姿したあいつの言葉が蘇る。
 もう、8年も前のことやいうのに、あまりにも鮮明にはっきりと。
 「なぁ、服部、オメーならどっちだ? どっちが正解だと思う?」
 ・・・どないせぇっちゅうねん!



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 「平次、ほんまに構わへん?」
 「おう、楽しんで来いや。昼飯適当に食うとくし。」
 リビングで寝そべりながら新聞読んでると、和葉がマタニティドレス着て現れた。
 「せやけど、お前、無理はするな。しんどかったら、すぐ休めよ。電車でもバスでも、堂々と椅子に座っとりゃええんやから。」
 8ヶ月に入った和葉のでかい腹をちらっと見上げる。
 「うん、わかってる。・・・そうや。この前な、電車のなかで、ちょっとしんどいな思てたら、席替わってくれた人おってんけど、誰や思う?」
 「知ってるやつか?」
 「うん、知ってるも何も。和美の旦那や。」
 「おう、あのひょうきんワカメか。」
 「アハハ、西村君のあだ名、ワカメやったなぁ。そう、きちっと背広着てな、『遠山さん?』言うてな、声かけてくれてん。」
 「へえ、あいつ、サラリーマンやってんねやろ。」
 「そうらしい。アパレルや言うてたなぁ。営業で、きつい言うてたわ。」
 「ふうん」
 「あ、いかん時間に遅れる。ほな、行ってくるし。多分、夕方には帰ってくるわ。」
 「おう、和美にもよろしう。」
 「わかった。」
 くるっと向こうを向いたあいつの頭には、もうゆらゆらするしっぽはない。
 残暑は厳しかったけど、ようやっと過ごしやすくなってきた頃、和葉は高校以来の親友、和美と遊びに出かけた。

 大学を卒業して2年後、俺と和葉は結婚した。本職の探偵の方も、ぼちぼち言うところか。ま、高校の時からの実績があるから、なんとか食うていける状態。 おかんは、一緒に住めばいいて言うてくれたけど、俺と和葉は二人でできる限りのことやってみよ、言うて、小さなアパート借りて住んでる。事務所は、近くの マンションのオーナーが、とある事件を解決した縁で、格安で部屋を一つ貸してくれてる。
 そんでもって、今年中に俺は父親になる予定。「扶養家族増えるんは年末がええねんで。うちらばっちりや。」と、勘定に細かい和葉がえばっとった。つわり の時はひどうて、実家でひぃひぃ言うとったけど。
 涼しなった風に吹かれながら、俺は久しぶりの休日をなんとのうくすぐったいような幸せに浸って過ごしとった。
 ・・・その時までは。

 昼飯を食って、新聞の切り抜きなんか整理してちょっと眠となってきた3時頃、携帯電話が鳴った。
 「もしもし・・・」
 「平次、平次! 和美のうち、はよ来て! 大変やねん。」
 和葉の声にただならんもん感じて、俺は飛び起きた。
 「なんや、なにがあってん」
 「西村君が、西村君が・・・・、死んでるみたいやねん。」
 何ぃ?
 「わかったすぐ行く。どこや。」
 俺は、車のキーを取った。
 「守口市駅の近くのマンションビラ鳳。駅と淀川の間。」
 家の鍵をかけ、俺は外へ走り出した。
 「救急車は呼んだか。」
 「今、和美が警察と救急車の両方呼んでる。」
 駐車場の車に乗り込む。
 「わかった。・・・お前、死体が直に見えんとこで座って待っとれ。」
 「うん・・・、気ぃ付けて、はよ来て。」
 和葉の声が、少し安心したのか、ゆっくりと、けれど心細そうに響いた。
 「切るで」
 そのまま携帯を切ると、車を出す。
 「くそったれ」
 思わず俺は叫んでいた。何で、よりによって、身重のあいつが死体の傍におらないかんねん。今日だけは、おまわりに会いとないなと思いながら、俺は車を飛ばした。



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