***彼女の場合***

「もし、あの時彼が来なかったら・・・。」
ポケットの中から、警察手帳と手錠を取り出すと、机の上にそっと置いた。
あの日は、なんだか、いろんなことがありすぎて、感情が麻痺してしまっていたけれど、こうして時間が経って、冷静になると、自分のとった行動が夜毎私自身をさいなむ。
「・・・お父さん、ごめんなさい・・・。」
けれど、古びた手錠は、物言わぬまま、冷たい光を放っているだけだった。
くたびれた身体を布団に投げ出すと、意識は自然とあの時間へと戻ってゆく。
感情のまま、警官としてあるまじき行為をとってしまったこと。
そんな私の目を覚まさせてくれた彼のこと。
・・・そして、私は再びため息をつく。
何て、身勝手な言葉を投げつけたのだろう。
忘れたいから、彼に惹かれているとでもいうの?
松田君と同じ言葉をくれた彼に、想いがだぶるの?
彼は、あんなに真剣に私を見つめてくれているというのに!
あの時、目暮警部が来られなかったら・・・。
そう思うと、顔が熱くなるけれど、ほっとしている自分がいる。
こんな心のまま、彼に触れることなどできない・・・。
やけどの痕を眺めながら、彼に見つめられた夜を思い出す。
ほんとに、私なんかに、もったいないよ・・・高木君。
壁に掛かったカレンダーの赤い丸印が、どことなく滲んで見えた。

「あら、非番の日に、こんな早起きなんて、珍しいじゃない。」
「お母さん・・・出掛けるの?」
いかにも出掛けます、といった風体で母親が朝食を食べている。
「うふ、日帰りバスツアーってやつよ。お友達に誘われたから、行ってくるわね。
そうそう、帰り、かなり遅くなるらしいから。」
うきうきした様子に、こちらまで、何となく笑みが浮かんでしまう。
ひとしきり、件のバスツアーについて語った後、唐突に母親が尋ねる。
「あなたも、今日はなんかあるんでしょ?」
「なんで?」
「だって、カレンダーに印が付けてあったじゃない。」
そういうところは、相変わらずチェック厳しいなぁ。
「別に。非番の日という印よ。」
ふ〜んという意味ありげな顔を横目に、私は新聞を広げる。
黙ってしまった私に、母は小さなため息一つつくと、「それじゃ、ごゆっくり。」と、席を立った。
今日も、あの爆弾魔の事件の経過が記事になっている。ひととおり読み終わると、ゆっくりと椅子の背にもたれ、天井を仰いで、じんじんする目頭を押さえる。
・・・昨夜は、一睡もできなかった・・・。




***彼の場合***

薄暗がりでネクタイをはずすと、俺はやっと人心地ついた。
「お前、自信満々じゃん。」
ふと、千葉の言葉を思い出す。
過去って、忘れたいものかな・・・と、なるたけ、あの時のことは突っ込まれないようにして、何気なく聞いてみたのだ。
「でも、大切な思い出なら、忘れない方がいいんじゃないのかな・・・。」
どこかうさんくさそうに、にやにやしながら聞いていた千葉が、俺のそんな言葉を聞いた瞬間、ぱちんと弾けたような顔になった。
「おや〜、お前、余裕だね。彼女の心に誰かが住んでても大丈夫・・・ってか?」
余裕・・・。そんなもん、ありやしない。
いつも余裕なんかなくて、彼女の後を追いかけるので必死で。
そんなもん、ありはしない!
彼女を守りたくて、包みたくて、けれど、焦って、想いばかりが空回りしているようで。
・・・そういう問題じゃなくて・・・。
それも、彼女だと思うんだ。どんなものも、彼女が心に持っているものは、全て彼女を形作っているから。
思い出だから?故人だから?
相手が死んでしまってるから、そんなことを思うんだろうか。
布団のぬくもりの中で、幾度も寝返りを打ちながら、延々そんなことを考えていた。
そして、ようやっと眠ろうという気になったのは、牛乳屋の配達の音が聞こえた頃だった。

眠ったか眠らなかったのかわからないような朝を迎え、俺は目覚ましを止める。
軽く頭を振りながら、洗面所で顔を洗うと、寝ぼけた顔がそこに映った。
「・・・今日は、なんだかとんでもない失敗しでかしそうだな・・・。」
目暮警部の怒鳴り声を思い浮かべると、大きくため息をついた。
のろのろとワイシャツの袖に腕を通すと、ふと壁のカレンダーが目にはいる。
赤い丸印・・・。
ぼんやりとそれを眺めていると、唐突に目が覚めた。
今日は休み!
そう・・・滅多に取れない有給休暇。
彼女と、トロピカルシーに行くはずだった。
あれから・・・そう、あれから、約束は復活していない。
気が抜けて、着かけたワイシャツを脱ぐと、ベッドに座り込んだ。