第三海堡(かいほう)を見に行った
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ページ中の※印資料は東京湾口航路工事事務所展示室資料及びパンフレットを掲載、若しくは参考にしています。

     


以前‘第2海堡探索記’のページに東京湾には全部で海堡(人工島の要塞)が三つあると紹介した。
最近、これらが急に注目されて(もっと前から興味のある人はいたんだろうけど・・・)
2002年9月に‘東京湾海堡ファンクラブ’というのが発足した。こんなのが出来たのにも驚いたが、
これが日本経済新聞に紹介されていたのにはもっと驚いた。
郷土史研究会の人たちが母体となっているようだ。(平均年齢もかなり高い)純粋に郷土史を学ぶ一環で
海堡に行き当たった人と世話人のように廃墟の芸術性追求や摩訶不思議大好き好奇心丸出し派とは
アプローチがかなり異なるが、世話人も早速入会した。
その時点では会員50名程度で年会費1、000円だった。これで運営できるのだろうか?

このファンクラブのことはまた別の機会に紹介するとして、そのイベントが11月にあり、
それが船に乗って第3海堡を見に行こうというものであった。

ここで第3海堡の簡単説明

   

第3海堡は帝都東京を防護するため、東京湾口の海中に設けられた砲台設置のための人工島の一つで
15cmカノン砲4門、10cmカノン砲8門、探照灯等が装備された。
(2001年に世話人が訪れた第2海堡から約2.6kmの距離にある)

明治25年8月捨石開始。30年の歳月と延べ43万人もの労力を費やして大正10年竣工。
第3海堡の位置の水深は39メートルあり、潮流は秒速20メートルにもなる急流部であるため、
世界でも例のない難工事となった。この潮流がその後の崩壊を進め、また現在の撤去工事での障害にも
なっている。竣工当時、第3海堡の頭部の長さは68メートル、中部の長さが177メートル、
突尾部の長さが81メートルで総面積34,000平方メートルであった。
(第3海堡は結構おぞましい形をしている。大きさは横浜スタジアムと比較してみてください。)

    
竣工2年後の大正12年、関東大震災に見舞われた各海堡は致命的打撃を受けた。
それぞれ捨石を基礎とした海底よりの人工地盤ため、その破壊状況は水深に比例して大きく、
一番深かったこの第3海堡は基礎を構成する防波堤、護岸が全部転覆してしまった。 
上部構造物の被害程度も基礎破壊の程度に比例して中部及び頭部の一部を除きコンクリート建造物は
全部海中に転覆あるいは大きく傾斜した。結局、施設の三分の一が水没したため、砲その他を移設した
後は太平洋戦争にいたっても実用はされることはなかった。今はほとんど崩れ去って沈下埋没しており、
見た目は岩礁のようである。

       
これが、その後東京湾口の障害物として幾多の海難事故を発生させてきた。安全確保のため国土交通省は
2000年12月から撤去工事に着手し、約7年間をかけ水深23mまで掘り下げる予定だ。
すでにコンクリート構造物(重さ800tもある探照灯台座や弾薬庫等の小部屋、通路)が起重機船の
クレーンでつり上げられて79年ぶり地上にその姿を現した。


というわけで今回、関東地方整備局東京湾口航路工事事務所と実際の撤去工事に携わる東亜建設工業(株)
のご協力を得て、撤去中の第3海堡を船に乗って見にいけるということだったので
世話人も朝一番の早起きで横須賀に向かった。

ところが・・・天気は大変良かったのだが、波が高く出航は見合わせるという。なんということだ
ここまで来てそれはないと思っていたら、引き揚げた海中のコンクリート構造物を追浜あたりの岸壁に
展示しているのでそれを見せてくれるという。

それでもイイかぁーと世話人は気持ちを切りかえた。早速、東亜建設工業の山本さんの車に乗せてもらい
現地に向かう。山本さんは海堡博士のような人で、車中で海堡の詳しい説明をしてくれた上に世話人の
脈絡のない質問にも親切に答えてくれて、世話人の海堡知識もグッと深まった。

震災以来第3海堡も沈下してきているが、ここ20年くらいで1mくらい沈んでしまっていること。

漁業補償の関係で工期は7年間だが、やはり不発弾や得体の知れない物がでてくる。
そのたびに自衛隊に来てもらって工事がストップするので工事の進捗思わしくないこと。

第3海堡は他の海堡に比べて着工も竣工も遅いため設計思想が異なり他のレンガ造りのものから
コンクリート主体になっている。その圧縮強度は現在のコンクリートに比較しても全く遜色がないこと。

撤去した構築物は将来何で必要になるかわからないのでその形を立体的にデジタル解析して保存し、
漁礁に利用するためにまた海底に沈められるが、その位置はGPSで把握されていること。

その世話人もぜひ入手したいと思っている海堡の設計図面は、終戦時にGHQの焼却命令に従ったので
いまのところ存在しない。ただ第3海堡の仮設計図面だけ隠し持っていた人がいたので状況は把握
できるが、出来上がっているものは図面とかなり違ったものになっている。
これから先なにが出てくるか楽しみだ。などなど・・・

世話人にとっては役立つ情報ばかりでありました。

説明を聞いているうちに海中からの撤去物が展示されている追浜のヤードに到着した。
いやぁー!いっぱいおるなぁー!いろんなヤツが・・・一見テーマパークみたいだ。
海中から引き揚げられた時の写真を見ると茶色い色をしていたのが、乾燥して白っぽくなっている。
フジツボなんかがいっぱいくっ付いているが保存状態はよい。弾薬庫や通路には錆びた鉄の扉が
そのまま残っている。100年近くも前のものだ。

    
弾薬庫                  観測所                弾薬庫(裏側)

        
 
倉庫の前の世話人(この倉庫も100tぐらいある)            観測所(裏側)      .

驚いたことだが、これはもともと軍事施設だから攻撃と防御に対する機能だけを満たせばよいはずだ。
コンクリートの単なる塊でもよいはずだ。それなのにこれらすべて表面をモルタルの左官仕上をしている。
それも土に埋もれる部分までも仕上をしているのだ。そしてそのモルタルがほとんど剥がれていない。

ここで考えさせられるのだが、当時の職人はものがなんであれ確実な仕事をしないと気がすまなかった
のだろうか?また、職人を使う側もそんなムダな事はするな。機能と効率のバランスを考えて仕事を
しろとは言わなかったのだろうか?そんなことはあまり気にしない時代背景だったのだろうか?
軍事施設なんて殺伐としていてあたりまえなのだが、なぁーんか皆のほほぉーんとしているというか
可愛らしくみえてくるから不思議だ。帝都防衛とは別の物のような気がしてくる。

この日は建設の功労者である西田陸軍工兵少佐の記念碑を衣笠公園まで見に行ってお終いとなりました。

  
部分的にみるとエーゲ海の島の建物を連想させられ美しい。

現在、海面あたりの構築物の撤去は終わって、干潮時にちょっと見えるぐらいの状態らしい。
今回が海上にある第3海堡を見ることができる最後のチャンスだったかもしれないので
船がでなかったのはちょっと残念でありました・・。