鳥海山大物忌神社

イメージ図

御祭神

神社の創祀は欽明天皇二十五年(千四百余年前)の御代と伝えられている。

鳥海山は活火山で、噴火などの異変が起こると朝廷から奉幣があり鎮祭が行われた。

本社は山頂に鎮座し、麓に「口の宮」と呼ばれる里宮が吹浦と蕨岡の二ケ所に鎮座する。

大物忌神社は貞観四年(八六二)十一月官社に列し、延喜式神名帳には名神大社として、吹浦鎮座の月山神社と共に収載されている。

後に、出羽國一の宮となり、朝野の崇敬を集めた。

特に歴代天皇の崇敬篤く、八幡太郎義家の戦勝祈願、北畠顕信の土地寄進、鎌倉幕府や庄内藩主の社殿の造修など時々の武将にも篤く崇敬されてきた。

中世、「神仏混淆以来、鳥海山大権現として社僧の奉仕するところとなったが、明治三年神仏分離に際し旧に復して大物忌神社となり、明治四年五月吹浦口の宮が国幣中社に列したが、同十三年七月に山頂本社を国弊中社改め、同十四年に吹浦・蔵岡の社殿を口の宮と称えて、隔年の官祭執行の制を定めた。

昭和三十年に三社を総称して現社号となる。

山頂の御本殿は伊勢野神宮と同じく二十年毎に建て替える式年造営の制となっている。

現在のご本殿は平成九年に造営された。

鳥海山大物忌神社

重要文化財

一、鎌倉幕府奉行人連署 奉書 国重要文化財
両所宮 (吹浦口の宮)の修造を北目地頭に北條義時の雑掌二人の連署を以て催促せる文書にして、建保六年差遣せる雑色が、翌承久元年源寛實朝が公暁のために害されたるを以て帰参せる旨、文中に記せるは興味ある。
鎌倉幕府奉行人連署
一、北鼻顯信寄進状 一通 国重要文化財
顕信卿 (親房卿の第二子)の自筆にて、一宮両所大菩薩 (吹浦口の宮)に秋田県由利郡小石郷乙友村を寄進して、奥羽両国の静謐を祈願せられたときの文書である。
北鼻顯信寄進状
鰐口 県指定文化財
「鳥海山」の名は古くは北の山、飽海岳と呼ばれていたが、文字として現われたのは暦応五年(一三四二)の七月二十六日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口に記されたのが最古である。
鰐口