【夕焼け空の彼方】


 地平に落ちる太陽が空に最後の光をなげかけている。やさしい橙と金色は、菫花で染めた空に光る糸で縫いとりをする。そのうつくしい布地がしずかな藍色に沈んでゆくと、おだやかな涼があたりをつつみはじめた。


 殺生丸の胸に抱かれ空を翔けながら、りんは着物の衿をかきあわせた。晩夏の夕空はなぜこうも人の心をゆさぶるのだろう。ここちよいはずの涼風も、心の水面を波立てる。
 殺生丸は銀糸のような髪を夕風になぶらせながら、胸に抱いたりんに目をおとした。
――――ようやくだ。
 この娘はついに自分と来ることを選んだ。待ちつづけてようやく得た宝が、わが腕のなかで確かに息をしている。黒髪が風をうけ柳枝のように舞うのを、殺生丸はうつくしいと思った。
「りん――」
 衿をかきあわせて睫毛をふせたようすは、いかにも儚げだ。物思いにでも沈んでいるのだろうか。それも無理からぬことかもしれない。たったいま、この娘は人間の世界を離れたのだから。
「――りん、もうすこし飛ぶ」
 その声に頷いたとき、睫毛から透明な雫が落ちた。それは風に散って、水晶の珠がくだけるように光って消えた。
 殺生丸には経験がないが、鼻先に白刃をつきつけられるというのはこういう感覚だろうか。血がいっときに氷になった気がする。それでも大妖は、いつもと変わらぬ声で訊ねた。
「どうした、りん」
「わからない」

 それはかなしいのでも、さびしいのでも、ない。不安というのともちがう。「ああ、この夕陽が照らす空のむこうにみんながいるんだなあ」、そう思うと胸のなかが波濤のようにさわぐのだ。
 殺生丸がえらんでくれた場所。彼女が一度は失くしてしまった人としての暮しは、抱きしめてくれる胸のぬくみのように、つつみこんでくれる手のひらのように、あたたかかった。
「わからないの。だけど夕焼け空、きれいだなあって。とっても、とってもきれいだなあって」
 生まれ落ちた土地ではなくとも、そこはりんにとっての「ふるさと」になった。
 空の彼方を見やる瞳に、すみれ色の濃淡が映って濡れている。



 聞こえるのは風の音ばかり。しばらくの間があって、殺生丸が言葉を発した。
「戻るか?」
 いまさらりんを人里に帰してやる気などない。「戻る」とは答えないだろうと信じてもいる。それでももしりんが望むのならば、帰すという選択肢を否定しないだろうというのも事実だった。りんを縄でつないでそばに置くのでは、だめなのだ。

 りんは目をしばたたいた。不意をつかれた雫が転がり落ちて、白い袂にあたって光った。
「あたし、戻ったりしないよ」
 りんは殺生丸を見あげた。金と黒の双眸が交わる。
「殺生丸さまがくれたふるさとは、あたしの中にあるもの。村のみんなにもらったものは、あたしの中で生きてるよ」
 殺生丸がくれた、きれいでやさしい、ひとかけら。この夕焼け空のようにうつくしすぎて、心の水面から気持ちが溢れてしまう。どうかあのひとたちが末永くしあわせでいてほしいと願わずにはいられない。
 りんは、ありがとう、とつぶやいた。離れゆく村に対してか、殺生丸へか。そしてまぶしい陽ざしのような声で宣言した。
「あたし、殺生丸さまと行くんだ。戻れって言われても戻らないんだから」
「そうか」
 殺生丸はりんの手を、覆うように包んだ。もうなにも言わず、ゆくてを見すえて夕空を翔けつづける。


 その夜、殺生丸は野宿のために森におりても、りんが横になってからも、ずっと手をにぎっていた。もう大人なんだから恥ずかしいよ、とはりんは言わなかった。包んでくれる手のひらがただただ、あたたかかった。
 いつ眠ってしまったのか、りんは覚えていない。けれど、あたたかいすみれ色の、うつくしい夢を見た。ずっと消えないそのすみれ色は、りんの手のなかでいつまでも陽のなごりのようにやさしいぬくみを残している。



< 終 >












2019年11月1日UP
< back > < サイトの入り口に戻る >