【ささめごと】


 夏の夜はひそやかな音に満ちている。森や沢から生じた霧のささめき、かすかに身じろぎする草木の軋み、それらを踏みしだきうろつく獣たちの息づかい。わきたつように、あまたの命が息づいている。



 あけ放たれた板戸から淡い闇がしのび入った。夏夜の閨で流水のごとく交わるは漆黒の髪、銀の髪。耳元でさらりと音をたてた銀色に、りんはうすく瞼をあげた。
「あの……板戸あけっぱなし……閉めてきていい?」
「放っておけ」

 闇にざわめく気配を察しているだろうに、小袖の内に手をすべり込ませる。長い手指で肌をなぞると、恥じらっているのかりんは身をよじった。その一方で殺生丸に触れかえし、不器用に躰を添わす。
 殺生丸は汗ばむ柔肌にくちづけを落とし続けた。何度も、終わりなどないというように。熱い。肌をとおして伝わるのは、りんの血汐のぬくもりだ。
 すすり泣くような喘ぎを口で塞げば、いちずに唇を吸いかえす。その苦しげな息づかいも愛おしい。苛むようにしてさらに唇を重ねる。殺生丸さま今日はなにかあったのかな……りんに生じた気がかりなど熱に溶けるように奪われてしまう。
 やがて殺生丸の舌は唇を逸れて、顎へ、首筋へ、胸先へと落ちていった。蜜のような息づかいが殺生丸の耳をくすぐっている。
――――熱い。りんの命が燃えている。



 気を失いそうになると、りんは間際で引き戻された。打ち寄せる波にくりかえし躰を洗われるように、何度も、幾たびも。それでもりんはすべてを受け入れる。今宵のようなはげしい愛撫も、共に生きることも――――いつかは共にいられなくなることも。
 いま殺生丸とりんは妖怪も人間もない、ただの男と女となって交わる。焔が狂おしく絡みあい、燃えたつように。それを獣だと言うだろうか。だが置いてゆかれる者と先立たねばならぬ者の悲しみさえ、こうして混じりあっている時には、意味もない。「殺生丸」と「りん」というただそれだけを纏い、ひとつのものになる。

 力をこめたりんの指を、殺生丸はつよく握りかえした。
「りん、おまえの命を私に刻め」
――――この肌に、耳に、舌に、目に、おまえのすべてを与えよ。たとえいつか離れる時がきても、私のなかでおまえが生きつづけるように。





 血汐も熱も吐息もすべてさらけ出し、獣たちは暁をむかえる。

 眠りから覚めて野をわたる風の音、りんの息……おおらかでやさしい音が大妖の鼓膜を撫でている。殺生丸を甘く狂わせた息づかいは、いまはそよ風のように穏やかだ。汗に湿った谷間に手を這わせると、規則正しい心臓の鼓動が伝わってくる。
――――まだだ、まだ足りない。この身のなかに溶けてしまうまで、りんが欲しい。
「りん。……りん」
 だがもう聞こえていないのだろう、りんはうすく唇をひらいたままやさしい寝息をたてはじめた。耳に心地よいそれを聴けば、殺生丸の血汐も風が凪ぐように平静を取り戻す。荒ぶる神を鎮める唱言のようでもあった。

「好きなだけ眠れ」
 殺生丸は長い睫毛をふせた。冷たく見えるほど端整な面差しから滲むのは、慈しみの情だろうか。
 柔肌に浮いた汗をぬぐい、受けきれぬほどの愛撫を飲み込んだ躰に小袖をかけてやる。今日はもう起きるのがつらいだろう。寝顔へ眼差しをおとすと、童のように安心しきった顔で眠っている。この寝顔もやさしい息づかいも、やはりりんの命の証にはちがいない。澄んだ金色の眼差しで獣はささやいた。
(聞こえていないだろうが、よく覚えておけ)
――――私のもとを去るときは、この魂を持ってゆくがいい。おまえがくれたもののかわりに、私の魂はおまえにやろう。



 寝所には朝の光が射しはじめている。薄絹の小袖におおわれて、りんは繭に守られたように深い眠りのなかだ。
 いまは舘の外も閨の内も、夜の息づかいとは異なる気配がある。大小あまたの音、音、音。あたらしい朝を迎える命たちの、晴れやかな息吹きである。蝉の声、木々のざわめき、小鳥のおしゃべり。りんが目を覚ます頃には、さぞにぎやかになっていることだろう。


< 終 >












2019年8月1日UP
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