【滝鳴る夏】


 それは、焼け付くような陽射しの、ある夏の日のことだった。

「りん、何で阿吽に乗らんのじゃ」
 足元から声がかかった。夏草が膝まで隠す斜面を、彼らは歩んでいる。妖怪と、妖獣と、人の子と。藪の斜面自体が波立ち、もぞもぞと蠢いているのが見える。半ば下草に覆われて歩く邪見である。人頭杖だけが草上にひょこひょこと動く様子を見れば、誰しも目をしばたかせるに違いない。
「大丈夫、りん歩くの好きなんだよ」
 そんな邪見を振り返りつつ、りんは笑った。

 茂みの中にはいかにも夏らしい色をしたヤブカンゾウが花をつけているかと思えば、思いがけずギボウシが薄青い花弁をしっとりと開いていたりして、全く飽きる事が無かった。もうすっかり夏だ。太陽は木立の上からでも容赦なく大地を焼き、熱を持った大気は膨張して胸が苦しいほどだ。
 前を歩く殺生丸を見れば、常と変わらぬ涼やかさで歩を進めている。どんな季節もこの大妖怪を悩ます事など叶わぬのだろうか、水のように澄んだ後姿に、この酷い暑さの陰など全く見当たらなかった。

 りんは額ににじむ汗を拭いながら、その後姿を追う。近づくようで、なかなか距離は縮まらない。だらだらと続く斜面はいつまでたっても先が見えず、野歩きに慣れたりんも、さすがに息が苦しい。
「しんどそうじゃないか。 もしかして遠慮しとるのか?」
 背後から人頭杖をふりふり歩く邪見が、草を掻き分けながら言った。
「ううん、へーき」
 そう言ったものの、確かに少々つらい。だが阿吽に乗るのは躊躇われた。この暑さだ、妖獣とて全くこたえていないわけではないだろう。
(最近あたし、背が伸びた。きっと重くなってる)
 りんは思う、元気に歩ける手足があるのだ。阿吽に重く暑い思いをさせるまでもない事だ。


 どれくらい藪の坂を登っただろう。冷たい風がさっ、と汗を冷やす感触にりんは目を上げた。
 仄青い影が空間を薄く覆っている。いつしか道は木立鬱蒼と茂り、幽かな虫の音聞こえる森の中へと踏み込んでいた。かそけき響きが森閑とした空気を幽かに揺らしている。近くに小さな滝か何かあるらしかった。
 りんは冷えた空気を思いっきり吸い込む。こめかみの辺りに溜まった熱が、少しづつ引いてゆくのが分かった。殺生丸はといえば、我関せずという態で歩を進めると、空を覆うひときわ大きな大樹に寄りかかり腰を下した。ここで休むという事だろう。殺生丸が汗ひとつかいていないのが、何やら不思議な気がした。かの妖怪を包む空気は、その周囲だけ性質を異にしているのかと思えてしまう。それにしても、この汗はたまらない。
「ね、邪見さま、滝が近くにあるみたいだよ。探してきていい?」
 少し遅れてやって来た邪見に尋ねると、あんまり遠くに行ってはならんぞ、とのお言葉だ。せめて顔だけでも洗えたら、ずいぶん気持ち良くなるだろう。

 少し森の中を歩くと、次第に岩が散見するようになった。水の匂いがする。やはり近くに滝があるに違いない。
 地面の小高く盛り上った一角を越えると、はたして水煙をあげる滝が目に飛び込んで来た。滝壷を囲む岩々を巧みに避けながら、りんは水際に駆け寄る。風に舞う細やかな冷たい飛沫が、りんの頬や手足に触れるか触れないかの合間でたゆとい、何処かへ消えて行く。注意深く覗き込んで、りんは水の中に手を入れてみた。別世界のような心地よい冷たさに、思わず腕を水にくぐらせる。滝から生まれる風が、りんの肌に浮かんだ汗の熱をゆるやかに奪って行った。
 森の外の炎天が、ここでは嘘のようだ。こうして落ち着いてみると、今さらながら体が悲鳴をあげていた事に気付く。外界の熱の名残のように、足裏などは赤く腫れていた。
(冷やしといたほうが良さそう……)
 りんは立ち上がった。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 木に凭れて辺りの気を聴いていた殺生丸は、大気の乱れと小さな悲鳴に、ゆっくりと目を開いた。
 水音、 りん、 悲鳴
(滝か……)
 音も無く立ち上がる。銀の髪だけが、さらり、と揺れたようだ。邪見は強行軍に疲れていたのだろうか、小さな木を枕に鼾をかいている。それに一瞥をくれると、殺生丸はりんの匂いを追った。木々の間から、ところどころ木漏れ日が差している。滝壷から上がる飛沫が陽の光にふれて、そこここで微細な光を放っていた。

「……殺生丸さま」
 りんは、滝の浅瀬に座り込んでいた。かちり、と目が合う。怪我をしている様子はない。きまり悪そうな顔だ。
「何をしている」
 りんときたら、頭までずぶ濡れ。おおかた足でも滑らせて、水の中に転んだのだろう。上目遣いに殺生丸を見る様子は、何かの小動物のようだ。結わえた髪から、雫が不規則な間隔で滴り落ちている。
「早く上がれ」
 そう言い残して踵を返した。
(くだらん。この殺生丸が出向くなど……)
 己でも不可解な行動をそれ以上考えるのは、腹立たしい。なぜりんの悲鳴に反射するように立ち上がったのか、思い返すのも馬鹿馬鹿しい。何事も無かったかのように殺生丸は歩み始めた。
 その時。
 慌てて立ち上がる水音に、殺生丸は物憂げに振り返った。


 それこそ「何をしいている」である、濡れ鼠で立ち上がったりんの姿は。水を吸った単(ひとえ)が張り付いて、布越しに顕わな肢体。殺生丸は一瞬目を見開いたあと、嘆息した。
(なんと無防備な……)
「涼しそうな格好だな」
 そう言い置いて滝を後にした。「この娘の相手をするのは骨が折れる」、心の奥底でそんな声が聞こえた。
 だが、そんな殺生丸の気持ちを知らぬものか、りんは殺生丸にまとわりついてくる。
「ごめんなさい! 足を冷やそうとしたらうっかり足を滑らせちゃったの……!」
 手間をかけたのが申し訳ないと思ったものか、状況説明に余念がない。殺生丸にはどうでもよい事であった。だが、りんは縋りつかんばかりに何か詫び言を繰り出している。自分がどんなに目の毒な格好をしているかなど、てんで気が付いていないらしい。歩を進めても、わざわざ前に出てくるのはどうしたものか。否が応でも、伸びやかに成長した肢体が視界に入り込んでくる。
(まだ子供だと思っていたが……)
 人の子は我らと時の刻みが違うのか、そんな事をふと思った。
(だが、己には関係無い)
 りんの詫びを聞き流しながら、もと来たほうへと歩き続ける。なぜか殺生丸の脳裏を父の面影が横切った。
(父上……)
 その面影に我知らず語りかけた。 父は、もう何も応えはしない。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 殺生丸が現実へと意識を戻すと、無言の父の面影の代わりにりんがまた前に回って何か言っているのが目に飛び込んで来た。必死のりんときたら、まつわりつくこと藪の草の実のようだ。
(煩わしい)
 殺生丸は思わず隻腕でりんを払いのける仕草をした。否、しようとした。しかしその手の甲は、りんを払いのける手前でゆっくりと止まってしまったのだ。
 叱られると思ったりんは、思わず肩をすくめてしまう。お喋りしすぎは、いつもやってしまうりんの失敗だ。
(またやっちゃった!)
 すくめたりんの肩から首筋から、無意識の艶がこぼれ出た。濡れた着物が、りんにまといついている。薄い布越しの起伏。柔らかそうな肌。
(拾った頃とはずいぶん違う……)
 殺生丸は、一瞬でりんが成長してしまったような感覚に、軽い眩暈を覚えた。

 殺生丸の金の瞳が、りんを真っ直ぐにとらえる。りんが予想した「うるさい、黙れ」といった類の言葉は、ついに発されなかった。りんはただ、無言のその瞳に捕らえられていた。常であれば何やらまた言葉を紡ぐであろうりんの口は、どうした事か一言も発する事が出来ない。りんを遠ざけるために動かされたはずの殺生丸の手は、今や、りんの頬にかすかに触れて停止していたからだ。柔らかなりんの頬を、殺生丸の硬質な手の甲と指がそっなぞる動作をする。口だけをぱくぱくと、りんの体は膠で固めたように動く事すら出来なかった。殺生丸が近すぎるくらいそばにいる。鼓動が滝の音よりもさらに強く、りんの耳を聾していた。

 いっぽう殺生丸は、じつのところ戸惑っていた。彼は煩わしい藪の草の実にただ一言、「黙れ」、そう言えば良いはずだった。いつものように、突き放す。それだけで済むはずの事。だが、殺生丸はりんを払いのけようとした。そしてその手で、我知らずりんの頬に触れていた。殺生丸ともあろう者、人間に対してこのように心振り回される事がかつてあっただろうか。
 いまこの瞬間、殺生丸にあるのは苛立ちとは無縁の感情だ。殺生丸は、その感情を知らない。知識としてはそれを得ていたかもしれない。けれど、身をもって知る事などないと思っていた感情だった。「人間など虫けら以下。ゆえに、それを知る事などありえない」、そう思い続けていたはずではなかったか。りんを拾ってから、何かが変わってしまった。少しずつ、少しづつ……。
 殺生丸は瞑目する。
(父上……、我らと人間は………)


(私と、りんは………)



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 日がやや傾き始めた草原へと、一行は歩み始めた。ずぶ濡れだったりんの着物も、もうすっかり乾いている。
(殺生丸さまの手……)
 頬が熱くなるのを不思議なような気持ちで感じつつ、りんは殺生丸の顔に変化が無いか窺ってみたくなった。そっとその長身に追いついて、斜め下方からこっそり見上げる。すると、夕方前の柔らかな空を背に、冷たいまでの清冽な横顔だ。振り返りもしない、いつもの殺生丸。どんな時も涼やかで、どんな時もその矜持を崩す事など考えられない。先程の殺生丸は、別世界の森が見せた幻だったかのようだ。
(もしかして、滝で転んで夢を見ちゃったのかなぁ……)
 ちょっと自信が無くなるりんである。けれどそっと掌で頬に触ってみると、殺生丸に触れられたほうの頬は更に熱い。外界から遮断されたあの森の中で、確かに起きた出来事。これはその証拠。


 それぞれの想いを抱き、一行は夏の野を歩む。いつしか日は翳り、橙色と菫色の濃淡が支配する夕空だ。
 空には明るい星がひとつ、親しげな光を大地に放っていた。そろそろ今宵の野宿の準備をせねばなるまい。夏野を歩むあやかしと人の影絵は、黄昏時の紺の紗の中を溶けるように消えていった。


< 終 >












2005.08.04 UP
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