【つないだ手】


 水色の空に、あわく薄紅色が刷かれてゆく。殺生丸が姿をあらわしたのは、そんな夕刻のことだった。春はいよいよ深くなり、里の者はみな畑仕事や田植えの準備でいそがしい。殺生丸がいつもより遅くやって来たのは、あらゆる畦道で出くわしてしまう村人がわずらわしかったのか、りんの野良仕事を邪魔をしたくなかっただけなのかはわからない。それでもりんにとっては、うれしい驚きだ。
「今日はたくさん働いたから、いいことがおきたみたい!」
「終わったか」
「うん! ちかごろは遅くまで明るいから、ずいぶんはかどるよ」
 種まきを終えた畑を背に、りんは快活に笑んだ。だが西の山の端の陽に気がついて、たちまち表情が曇る。夕陽が雲に隠されてしまったかと思うような消沈ぐあいだ。
「せっかく来てくれたのに、あたし、もう帰らなくちゃ……」
 やはりよく表情の変わる娘だった。だが刻限は殺生丸とて把握している。もう戻らねばならないことなど、とうに織りこみ済みだ。
「近くまで送ろう」
「ほんとう!?」


 刻々とうつりゆく暮色を背景に、銀の髪がまぼろしのようにあわく照っている。ならんで歩きながら、りんは種をまいた作物のこと、これから摘みとる薬草のこと、村に咲く花のことなどを次々と話して聞かせた。なんてうれしい帰り道だろう。
「それでね、むこうには殺生丸さまにも見てほしい花が……」
 そう語りかけ背後の森に目をやったとき、低く傾いた太陽がふたりの影を長くのばしていることにりんは気がついた。あたたかな橙色に照らされた地面に、殺生丸とりん、ふたつの影がならんで歩いている。
(そうだ!)
 ある思いつきが流星のように胸をよぎり、りんは目を輝かせた。歩く早さに気をつけながら腕の位置を加減する。少し近づけて、ちょっとだけ引っ込めて。これくらいでいいだろうか。
(わあ、できた!)
 本人には触れずとも、りんの手の影が殺生丸のそれと重なっている。
(まるで手をつないで歩いてるみたい!)
 そこに作られたのは、恋人の影絵だ。光と物体の位置が生んだ、つかのまの幻像である。
 りんはむつまじいふたりに微笑みかけた。胸の中で、柚子の実を割ったときのような香気がはじけて苦しい。
(よかったね)
――あたしのは救いようのない片恋だけど、貴女はとても幸せそうだもの。

 そのとき、恋人たちの影絵はたわいなく壊された。伸べていた腕を掴みあげられたのである。
「殺生丸さま……?!」
 手首のむこうからは、金の瞳が見おろしている。怒ってはいない。深山の湖面のように静謐な眼差しだった。
「おまえは影にそれをやらせて、自分ではしないのか」
 見られていたんだ、とりんは息をのんだ。それは気づかれるだろう、惚けたようにうしろ影ばかり見つめていたならば。隠れて悪さをしていたようなきまりわるさと恥ずかしさで言葉に詰まってしまう。
「それは、あたし……」
「したいなら、しろ」
 かくいう殺生丸にも、りんを咎める資格などありはしない。したいのにしないのは、己ではないか。いますぐりんを連れ去ろうと、幾度思ったことだろう。けれどその思いは黙殺して待ちつづけている。りんが自分の意思で「選ぶ」ときまで。

 口ごもったりんに、殺生丸は訊ねた。その言葉はいつものごとく短いが、永遠に聴いていたいと思うような穏やかな声色だった。
「どうした。私の言ったことが聞こえなかったか」
――自分は、なにをしたいのか。
 りんは意を決して殺生丸を見あげた。秘める必要など、そもそも無かったのかもしれない。簡潔きわまりない言いようのおかげだろうか、不思議とまっさらな気持ちになっている。からまった着物を脱ぎ捨てたような感じだ。
「あたし、殺生丸さまと手をつないで歩きたいです」
 そのひとは、かすかに頷いた。
「これでよいか」
 殺生丸は掴んだ腕をはなすと、りんの手に握りかえる。無造作に見えて、それは散りやすい花の束でも持ちあげるようにやわらかな所作だった。
 殺生丸の手のひらは大きくて、やっぱり冷たくはない。長い指はしっかりとりんの手をつつんでくれた。
 『ああ、そうか』と、りんは思った。こんなに簡単なことだったんだ、と。


 うすい紗をかさねるように夕暮れの空は薄桃から菫色へと色あいを深くしてゆく。
 りんの手をとって歩きながら、殺生丸は思いをめぐらせていた。
(今日も、来るとは言わぬか……)
 選ばせることにしたのは失敗だったろうか。この娘の生きた年月は、二十にも満たない。数百年生きようとも諸々迷いを生じることがあるのだ。まして人間には簡単に決められないことかもしれない、そんな不安がよぎる。
 けれど殺生丸はりんを甘く見てはいないだろうか。彼女はとっくに決めているのだ。妖怪の世界で――――殺生丸のそばで生きる、と。
 そうするにはあと少し、簡単ではない覚悟をせねばならない。自分が命を終えた瞬間、殺生丸は現世にとり残されるだろう。降るような慈しみをこれほど与えられても、「りん」という存在はあっけなく消えてしまうのだ。手のなかにつかまえた雪が止めるまもなく溶けてしまうように。いっそ触れることさえなく離れていたほうが、かのひとの喪失の手触りは軽いに違いない。
――――どちらを選べば、殺生丸さまの心が穏やかでいられるんだろう。
 その思いに折りあいがつけば、一直線に胸に飛びこんで言うのだ。「連れていって」と。


 野良仕事にでていた者はみな帰ってしまったのだろう、里は音もなく晩春の宵をむかえようとしている。殺生丸とりんはまろくやさしい夕まぐれを縫うように、村の小道をたどった。しのびよる春の闇にりんの足どりはおぼつかないが、つないだ手だけは確かだった。うれしい。なぜうれしいのか、理由などない。そうやってただ手をたずさえているだけで、どこまでも、どんなところへも行けるような気がする。

 西の山の端に陽がしずみ家々から小さな光がもれるころまで、ふたりはそうやって歩いた。空の茜色は深くなり、星がひとつ、空に輝いている。夕空はふたりの心模様のように幾重にも色彩を重ね、綾を織る。
 殺生丸とりんはもうなにも話さずに、ただ握った手だけは離さなかった。お互いの手のなかに、とてつもなく大切なものをしまっているかのようだ。


< 終 >












2019年4月1日UP
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