【降る光あつめて】


 きれいでたいせつで、両方の手のひらに包んでいつまでも大切にしたい思い出。一度はなにもかも失くしてしまったあたしのなかに、それはしずかに降りつもって美しい地平線を形作った。



 そのなかの、ひとかけら。
 あれは西国のお屋敷へゆく旅をはじめて、すぐのことだった。いまから思いかえしてみると、あたしはかなり――――ううん、全力で浮かれていた。夜も寝ないで邪見さまとおしゃべりしたり、ずぶ濡れになって魚をつかまえてみたり。蜂にさされて泣きべそをかいたこともあったっけ。
 それである朝、きゅうに熱を出してしまった。これじゃあ手のかかる童とかわらない。殺生丸さまがどんなにはやく歩いたって、どこまででもついてゆけるように大人になったはずなのにね。だけどちょっぴり言い訳するなら、やっと、やっと、殺生丸さまとずっといっしょで、昔みたいにまた旅をするのだもの。夢見心地で、はりきらずにはいられなかったんだ。


 殺生丸さまが見つけてくれたその杣小屋は、もうだれも使っていないようだった。埃のつもった寝床を邪見さまがきれいにしてくれたんだよ。だけどぼろぼろに朽ちた筵をひっぱり出してきたとき、殺生丸さまは「いらん」とおっしゃった。「しかし熱を出しておりますし、なにか掛けませんと……」、そう邪見さまが言うと、殺生丸さまはまるで赤ん坊でも寝かせるようにしてあたしの体を横たえた。そしてふわふわの白い妖毛を掛けてくれたの。邪見さまは「りん、ひっぱったり涎をたらしたりしてはいかんぞ」って言ったのだけど、あたしは頭がぼうっとしてそのまま眠りにおちてしまった。


 夜半、あたしは夢を見た。真っ赤な彼岸花が溶け落ちて、生あたたかい飛沫が頬にかかる夢。叫んでもちっとも声が出ないの。それから誰かの後姿に走っても走っても追いつかない夢。汗ばかりかいて苦しくて、でも追いこうと一生懸命だった。熱が出ていたせいかな、息苦しいような変な夢ばかり。
 そして目をあけたとき、まだ暗い小屋のなかに殺生丸さまの瞳を見つけた。夜空の月とおんなじに、なんにも言わずにそばで見守ってくれてたの。きれいで、しずかな、ふたつの月。それを見たら、熱いのも苦しいのも、夜風に払われるみたいに遠ざかっていく気がした。
「殺生丸さま、あたし、童みたいでごめんね」
「それは悪いことか」
「はしゃぎすぎて熱を出したりして……旅が遅れちゃったもの」
「急ぐ旅でもない」
 それから殺生丸さまは、「寝ろ」とおっしゃった。
「殺生丸さま、まだそばにいてくれる?」
「ああ」
 あたしは熱にうかされて見た夢のことは忘れて、ぜんぶ安心してまた眠りのなかに戻っていった。そのときのあたしがするべきことは、熱がさがるまで眠ること。


 翌朝目をひらくと、頭がすっきりとして、体が楽になっているのがわかった。熱がさがったんだ。
 殺生丸さまはどこだろうと視線をさまよわせると、――――あたしのとなりに横になっていた。
「ひえっ!」
 殺生丸さまはゆっくり瞼をあげた。
「もうよいようだな」
「えええ、そうだけど! そこに?」
 そばにいてくれる?とは聞いたけど、ちょっと近すぎると思うんだ。これじゃあ、お鼻とお鼻がくっついてしまう。ほんとはね、ずっといっしょにいてくれて、すごく嬉しいの。だけどなんだか恥ずかしくて、どこを見たらいいかもわからない。ぜいたくな悩みだよねえ。

 殺生丸さまは近すぎる距離から、あたしを見つめた。
「よく眠っていた。熱がさがって、こんどは冷えたのであろう」
 冷えた?ちっとも寒くなかったけれど。――――それからあたしは横になったまま飛びあがりそうになった。いつのまにかもこもこにくるまれている。きっと眠っているあいだにぎゅうぎゅう引っぱったのに違いない。そういえば、邪見さまがなにか忠告してくれていたよね。じゃあ、涎もたらしたのかな……。
「ごめんなさい! 痛くなかった? 戻します! すぐ!いますぐ!」
「まだそのままでいい」
 殺生丸さまはすこし笑ったようにも見えた。そしてちょっとのあいだ躊躇って、それでも手をのばして髪をなでてくれた。



 どんなちいさなかけらも、あたしにはたいせつ。すべての言の葉が、仕草が、まなざしが、星よりも美しく輝いて降ってくる。水晶みたいにきらきらしていたり、灯火みたいにあたたかさを宿していたり。あたしは落としてしまわないように、たいせつに手のなかに捕まえるんだ。
 それはこれまでも、これからも――――ずっと。思い出のひとつひとつは、ただの一片も失われることなく、今もあたしの心を照らしている。

 そして、ひとりぼっちのころのあたしみたいに殺生丸さまがこの世をぜんぶ灰色に感じることがあったら、このあたたかくてきれいな光が、殺生丸さまも照らしてくれたらいいと思う。あたしのなかに輝いている地平線は、殺生丸さまがつくってくれたものなんだもの。
 ぜんぶ――――殺生丸さまのものだよ。


< 終 >












2018年11月1日UP
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