【ひっつき虫】


「ね、邪見さま。殺生丸さまはまだお戻りにならないのかな」
 縁側の端でりんは足をぶらぶらさせた。秋草の穂がつま先に当たる。
「はしたないぞ、りん。殺生丸さまの勇名はあちこちに轟いとるからな。お忙しいんじゃ。まあ、此度はちと遅いのう」
「でしょう?」
「っておまえ、裾に草の実がついとるじゃないか。やれやれ、まるで童じゃな」
 かがみこんで見ると、たしかに草の小穂がくっついている。
「ほんとだー」
 いつ戻るだろうかと空ばかり見あげていたから、気がつかなかった。
 りんは裾についた草の実をつまんでみた。粘る芒からすると、縮み笹のものだろうか。なかなか取れてくれない。こういう草の実を「ひっつき虫」といって、村の童たちとくっつけあって遊んだものである。
 そうこうしているうちに、邪見が声をあげた。
「あの軌跡は殺生丸さまじゃな。お戻りになられたぞ」


「殺生丸さま!」
 昔と変わらず、小さいのがふたつ、駆けてくる。いや、ひとつはずいぶん大きくなった。それでもこの妖怪からすれば、きわめて小柄と言っていい。
「おかえりなさい。今日は遅かったから、邪見さまと心配してたところなの」
「そうか」
 歩みながら、殺生丸は二振りの刀をりんに預けた。殺生丸の刀を抱えるのは、妻となったりんだけに許された役目である。
「あのね、殺生丸さま。今夜はね……」
 たいせつそうに刀を捧げ持つりんの瞳は、殺生丸の白い袂(たもと)に吸いよせられていた。
「殺生丸さま……」
「なんだ」
「袂、血がついてる」
 殺生丸は己の手抜かりに舌打ちをした。


 妖の世界に生きる者と人間とでは、「やり方」が異なることが少なくはない。妖怪にとっては、血を見ることが正しいという場合もある。
「これはわたしのものではない」
 血痕は敗者が残したものだ。殺生丸は妖怪としての流儀で、倒さねばならぬ者と闘った。血の華を咲かせたことは、名誉とはされても隠し立てせねばならないことではない。しかしいま殺生丸のなかでは、八つ当たりめいた愚痴がうかんでいた。
(……なにを喰えば、あのような血になるのだ)
 常なれば銀色の長い髪も真白い着物も、血飛沫に汚されることはない。だが今日は、わずかにかわしそこねた。その痕跡を消すのに手間取ってしまったのだが、まだこびりついていたとは。

 りんは片方の腕で刀を抱きしめたまま、殺生丸の袂に手をやった。
「ほんとうに? ほんとうに殺生丸さまの血じゃないの?」
「わたしがそのような不覚をとると思うのか」
「そうじゃないけど、ほんとうに怪我してない?」
「ああ」
 すると見ひらいたりんの瞳から、大粒の光るものがこぼれおちた。
「よかった…………」
 つぎからつぎへ、磨いた水晶のような雫がおちてくる。このような顔をさせぬために血の跡を消してきたつもりだったのだが……。


 涙の粒は紅潮した頬をすべりおちては、袖を、足元の秋草を濡らした。
 殺生丸はりんの頬をぬぐう。それでもとどまることを知らぬように、彼女の瞳は透明な露に満ちてしまう。
「あたし、殺生丸さまが怪我……したと……おもっ…………」
 それ以上言葉を発すれば、子供みたいに声をあげて泣いてしまいそうだった。切りつけられたように胸が痛くなったかと思ったら、きゅうに足がふわふわするくらい安心して、心の臓が忙しい。
 りんは殺生丸の胸に、ぎゅうっと顔をおしつけた。そうすると、少しは喋れそうな気がする。
「……今日はりん、一日じゅう『ひっつき虫』になります」
「ひっつき虫?」
「野を歩くと着物にくっついてくる、草の実です」
「いいだろう。邪見、おまえは先に戻れ」
 心配そうに目をしばたたかせていた小妖怪は、ふうっ、と息をついて一礼した。
「……はいっ。お怪我がなくてよろしゅうございましたな」



 りんを胸にしがみつかせたまま、殺生丸は回廊を歩いた。りんは背を支えられて、足の運びを殺生丸に沿わせる。後ろ歩きの態だが、かまわないらしい。
 瞼のなかは、やわらかな闇。胸に顔をうずめているから、りんにはなにも見えない。ただ大切なひとの温かさと鼓動と歩みが、体全体に伝わってくる。
「りん、歩きにくい」
「うん」
「ほんとうにそのままでいるつもりか」
「うん」

 いつもよりゆるやかに歩みながら、殺生丸はこの場所に戻ってこられたということが、なんと得難いことであったかと思う。
(これがひっつき虫とやらか……)
 殺生丸という妖怪には、縁のない草の実だった。付着することさえかなわず、すべりおちてしまうから。しかしこの必死にしがみついてくるりんという娘は、相手が妖怪だろうがすべりおちようが、ものともしないのだ。
 ひっつき虫のりんを草の実のように剥ぎとる気など、殺生丸にはさらさらない。
――――わたしを想ってこれほど必死になる者など、ほかに誰がいただろう。自分のためではなく、この殺生丸のために涙を流す者など、幾人あるだろう。

 胸に顔をうずめるりんの頭に、殺生丸は手を置いた。まだ泣いているかと思ったが、少しは落ちついたようだ。
 昂って熱をもったようなその黒髪を、長い指で梳く。ぬばたまの黒のなかに、うすべに色の耳朶が見えた。
「つぎは、しくじらぬ」
 りんはかすかに頷いたようだった。


< 終 >












2018年8月1日UP
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