【汗と香気と】
りんは草を抜く手をとめ、初夏の空を見あげた。ふりそそぐ陽ざしは日ごとに力強く、草たちは休みなく根を伸ばす。勢いあまった彼らは畑まで占拠しようとするので、日々の草引きは欠かせない。
(ふー、暑くなってきたなあ)
桜の舞うころ、ふたりは祝言をあげた。その薄紅が目を潤す翠と変じ、いまは多様な草木が花ひらく季節だ。殺生丸とりん、ともに過ごすはじめての初夏をむかえる。
「今日はそのくらいにしておけ」
畑のむこうからかかる声がある。泥とも汗とも縁遠そうな立ち姿は、殺生丸だ。
「あとは邪見にさせればよい。どうせ昼寝でもしている」
りんは笑って頭をふった。
「ううん、もう少し」
殺生丸と暮らすこの舘で、やるべきことがあるのがりんには嬉しかった。身の回りのことはできるだけ自分でさせてもらっている。彼女は威厳あってしかるべき「大妖の妻」となったが、この大妖は形だけの権威など必要としなかったし、りんのほうでも貴人あつかいされるより立ち働いているほうが性に合うらしかった。
りんは近づいてきた殺生丸を見あげる。照れ笑いがまぶしそうにこぼれた。
「草引き、楽しいよ。あ、でも今日は夏みたいな陽ざしだね」
よごさないように髪を手ぬぐいで包んでいたが、陽にあたっていたせいか頬が上気している。血の色の透けたそれは、桃の実のごとくだ。
すると殺生丸は片膝をつき、手ぬぐいと髪のあいだに見えていた首筋に唇をよせた。殺生丸の唇が、首筋にかすかな音を生じさせる。
――――じつのところ、先だってよりそこに目が行ってしかたがなかった。
「殺生丸さま、だめだよ。汗かいてるから……!」
火照った首筋に唇の感触をうけ、りんの息が乱れた。
「殺生丸さまってば」
「不都合か?」
「あたし、汗臭いから、だめ」
「……むしろ好都合だ」
「え?!」
押しとどめようとする両手からは、草の匂いと我が妻の匂いが立ちのぼってくる。身をよじれはよじるほど、思考を忘れるほど濃厚に香った。
「殺生丸さまっ」
擦れあうほど間近なりんの頬が、熱を放っている。まるで初夏の陽ざしの持つ熱さのようだ。その熱に殺生丸は焦がれた。苦しいほどに求めたくなる。
「殺生丸さまっ」
「……なんだ」
「だめったら……だめ」
すると殺生丸は「今の今まで聞こえなかったが」、といった態でようやく唇を離した。汗の香と籠った熱が名残惜しい。
呼吸が浅くなったりんは、よけいに赤くなった。
「あつい……」
草引きしたのに加え、さらなる汗である。衿元に自分の鼻をつっこんで、りんは頓狂な声をあげた。
「わ、もっと汗臭くなってる!」
「そうは思えんが」
「えええ、臭いよぉ!」
少しでも隠そうというつもりか、りんは衿をかきあわせる。そんなふうにすれば、よけい暑いにちがいないのだが。
殺生丸はふと思いだして提案した。
「ならば湯殿とやらをつかうがいい」
「湯殿」と聞いて、りんは、ぱっ、と顔を輝かせた。
「わあっ、汗をかいたから、お湯を使えるのうれしい! 村では見たこともなかったけど、すごく気にいってるんだよ。そうだ、こんど湯殿に香りのする草を持って行こうと思ってたの。お湯だけでも気持ちいいけど、良い香りがしたら湯上りもすてきでしょ? 殺生丸さまは草の匂いは苦手ですか?」
「いや」
「よかった! 殺生丸さまはとてもお鼻がいいから、きらいだったら使うの止そうと思ってたの。じゃあなんの草にしようかな。ヨモギとかショウブとか、野ばらの花びらを集めたのとか。花びらはお湯に浮かべるんだよ。どれがいいかなあ?」
「好きにしろ」
「じゃあ野ばらのお湯にしようかな。咲いてるときじゃないとできないし。殺生丸さまも試してみる?」
「……いいから早く行け」
いつまでも喋りつづけそうなりんを湯殿へ追いたて、殺生丸は小さく息をついた。湯殿を気にいったのはいいが、それも少々困りものかもしれない。その汗も体温も、りんそのものの全てが好もしいというのに、いらぬ気づかいをしてくれる。折よく堪能できると思ったのに、まったく困ったいとしい奥方である。
(しかし暑さがつのれば、人の体に障りもあろう。今後、土いじりは休ませるなり湯殿を使わせるなりさせねば)
邪見などは過保護すぎると文句を言うかもしれないが、あやつはもっと働いて然るべきだろう。
殺生丸は湯に浮かべるという花の名を、唇にのせた。
「野ばら、か」
白い花びらをつけるあの低木のことだろう。風雅なことを思いついたものである。匂いというものは、温もればより強く香るものだ。土も、花も、――りんの汗も。香気をもつ草木を湯に入れれば、その熱でより香る。なるほど、理にはかなっている。あの白い花びらも、さだめし芳香を放つことだろう。
(しかし…………)
あることに思い至って、殺生丸は顎に手をやった。先ほどりんは、「殺生丸さまも試してみる?」と訊ねはしなかったか。花びらの浮かんだその湯を貴方もつかってみては?ということだろうか。それとも……「いっしょに湯に入らないか」という含みがあったのだろうか。お望みならば湯殿のなかで相手をしてやるのだが。
けれどあのりんのことである、言葉に意味を隠したりはしない。殺生丸が湯殿に現れれば、また頓狂な声をあげてうろたえるに相違ないのだ。どれほど殺生丸が焦がれていると思っているのか。だいたいりんは自覚がなさすぎる。
とりとめもなく思考を巡らせていると、やわらかな甘い匂いが鼻をかすめた。草か、それとも木に咲いた花だろうか。香りとともに、りんの姿が脳裏に浮かんだ。白い湯着を肌に張りつかせたりんが、ほのかに花の気配をまとわせこちらを見つめている。濡れた黒髪からは香気のたつ雫が滴り落ちた。
(「殺生丸さまも試してみる?」)
殺生丸は片手で顔を押さえた。幻影のりんにさえ惑わされてしまった。まったく、困った最強の奥方である。
< 終 >
2018年5月1日UP
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