【きみをば待たむ】


「またきてね、殺生丸さま」
 離れるときは、いつだって寂しい。後ろ姿も見えなくなってしまうころには自分の足がおぼつかなく思えて、草のうえにしゃがんでしまう。膝をかかえて「はー」と息をついた胸のなかは、ただの空洞みたいな気がする。
 きっとまた会いに来てくれる。けれど寂しいのはどうやっても寂しいのだ。


――じゃあね。――またね。こんな気持ちをなんど重ねただろう。とうとうこの日、りんの手は動いてしまった。優美な魚のような軌跡をえがく白い袂を、しっかり捕まえている。
「あれっ」
「……どうした」
「えーっと」
 つかめると思っていなかったから、とっさに言葉が思いうかばない。けれど殺生丸は、振りほどきはしなかった。
(まだいかないで。……いかないで)
 袂を握ったちいさな手が叫んでいる。
(あたし、もっといっしょにいたい、殺生丸さま)
 村に預けられたしばらくあとで、知った。殺生丸が自分を置いていったのは、りん自身に決めさせるつもりなのだと。――――人の世で暮らしたうえで、どう生きるか己で選びとる。その意味がりんには、まだ呑みこめなかった。(えらぶ? いっしょのままじゃ、だめなの?) 無垢な悲しみと困惑が瞳からあふれそうになったとき、老巫女が言葉を添えてくれた。「きっと殺生丸は、りんの生きかたを大切にしたいのだよ。それはおまえのことが、とても大事だからではないかな」、と。

(ほんとは今すぐにでもついて行く、って言いたい。でも……)
 まるでたくさん走ったあとのように、喉がしめつけられる。りんは、とにかくゆっくり息をしようと思った。見あげれば、凪いだ金色の瞳が月のようだ。
(……殺生丸さまはこんなふうに、いつも待っててくれるんだね。あたしが寄り道してるときも、転んでぐずぐずしているときも)
 人の世で人として命を全うするか、妖の世界に入り殺生丸のそばにいるか。りんがどちらを選んでも、彼は静かにこう言うのかもしれない。「そうか。好きにしろ」、と。
 そう答える声音を思いうかべて、りんは呼吸をととのえた。言葉は多くないが、低く落ちついた声……。待っていてくれるから、あちこちに落ちた葉っぱみたいに収拾がつかないこの気持ちも、少しづつ集めて言の葉にできる。

 りんはふうっ、と息をつくと、袂をつかんだ指をゆるめた。
「あたし、たくさん働いて、たくさん習うよ。食べもののことも、薬草のことも、野良仕事のことも。読み書きだって教わるし、自分のことは自分でできるようにするつもりだよ」
――――そしてまた追いかけるんだ。あたし自身の足で。殺生丸さまがうしろを振りかえらなくてもいいように、わざとゆっくり歩いてくれなくてもいいように。
「だから見ていて、殺生丸さま」

 静かな金色に、やわらかな影がひらりとよぎる。それは苦笑と呼ばれるものにも似ていた。
(いつでも攫えるはずだが、これではそれもできん)
 選ばせるという、己で立てたりんへの誓い。その死守するべき尊い決心が、己の枷ともなった瞬間である。
 殺生丸はいささか無念でもあった。
(つかんだ袂を放さずいればよかったものを。そうすれば私の塒(ねぐら)まで一飛びだ)
 だがりんは白い袂をそっと放した。ならば、かの娘の思うようにさせるまでだ。
 殺生丸はりんの頭に手を置いた。少しづつその位置が高くなっているのが、なんとも不思議に思われる。
「わかった。おまえを見ている。ずっと」
 この少女は知っている、殺生丸の言葉に偽りはないと。己の思う是であれば是、否であれば否と言い切る妖怪だった。心にもないことは死んでもしたくないし、言いたくもないのだろう。
――――このひとのことは、ぜんぶ信じていい。
 あの森で出会ったころから、そう思う。殺生丸が「見ている」と言うのならば、まちがいなく見ていてくれると疑いなく思えるのだ。
「うん! あたしも殺生丸さまを待ってる。ずっと」
「ああ」

――――――殺生丸さまはあたしみたいに「寂しい」って思うことはあるのかな。そんなこと言うの、聞いたことないけれど……もし殺生丸さまがそう思ったときは、あたし、おそばにいられたらいいな。寂しくならないように、たくさんお花をつんでさしあげて、たのしいことをたくさんお話しするの。そしたらあのたまらない「寂しい」っていう気持ちは、殺生丸さまの胸のすみっこでちっちゃくなってくれるかな。
 殺生丸は踵をかえした。
「また来る」
「うん、またね! 殺生丸さま、またね!」
 寂しくない。あたしはもう寂しくないはずだ。殺生丸さまが見ていてくれるのだから。りんは跳ねるようにして手をふった。結わえた髪のひとふさが、仔犬のしっぽのようだ。幾筋かの雲がたなびいている。そこに走るひとすじの銀色が雲のなかに溶けるまで、りんは見送っていた。


(「見ていて」、……か)
 殺生丸はその言葉を反芻した。りんが幸せならば、選ぶも選ばないもない。このまま人里に足繁く通う妖と、村娘のりんのままでいればいい。宙をめぐる月と星がごとく、逢って離れて、また逢って。なにも変わらぬまま、おだやかに時は過ぎるだろう。
 それでも殺生丸はこの温みをかたわらに置いて、我が手のなかに包んでおきたいと思う。宝物を塒にしまいこんで眠る獣のように。もはや自分と切り離せぬ半身だと、本能で感じているのかもしれない。いつしかこの気丈で儚いものが、自分の心臓になるのだと。
(攫えぬとは、少々面倒なことになったかもしれぬ。待つのは、りんか、それとも私だろうか)

 空を翔る殺生丸の耳に、声がよみがえる。それは風を切る音のなかでも微かに響く、鈴の音のようだった。
――――殺生丸さま、またね。


< 終 >












2018年2月1日UP
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