【蕾のひらくまで】


 春は、刻ごとに、日ごとに深まっている。そのままにとどめておきたいようでいて、この先を心待ちにする気持ちもある。蕾にやさしく吐息をかける春風は、やがて美しくひらいた花びらのまわりを親しげに舞う。殺生丸の屋敷も、そんな季節を迎えた。


 ある春の日のことである、りんはふわふわと目線をさまよわせていた。どんな顔をすればいいのだろう。笑みで顔のあちこちが変なふうに動いてしまう。だからといって、真面目な表情をつくるのもなんだか違う。結局のところ、「どうしようもないから、顔のことはもう放っておく」ことにした。
 こんなことになっているのは、殺生丸のせいである。彼はりんの髪を頬のあたりから掬い、指でするすると梳いている。それからまた手をのばし、髪を梳く。さきほどからこれを幾たびもくりかえしているのだ。なんども梳かれたので、生え際はすっかり撫でつけられ、耳が出てしまった。
「殺生丸さま」
「なんだ」
「あたしの髪、どうかしましたか」
「いや」
 するとこんどは、髪を梳いていた指でりんの頬を撫でる。
「あのう、殺生丸さま」
「なんだ」
「どうしてそんなに髪や頬を撫でるの?」
「したいからしている」
 そういうものだろうか。子どものころは、こんなふうな触れかたはしなかった。だから、なんだか戸惑ってしまう。殺生丸はりんから片時も目を離さない。りんが困惑している原因のひとつでもある。眼差しがあたたかいのを通りこし、じりじりと熱いくらいだ。
(『したいからしている』、かあ。でも、あたしが『ただ殺生丸さまのそばにいたい』、っていうのと同じなのかも)
 りんは屈託なく笑った。だったらなんにも戸惑うことないじゃない、という気持ちになる。
「そっか、うん、そっか」

「どうした」
「ふふ。納得、なの」
「……りん」
「なあに」
 この妖怪から名を呼ばれるのは、いつだって嬉しい。笑顔のまま、りんは誘われるように身をのりだした。
 すると殺生丸の指が、頬から後頭部にながれる。清流にひたした手のように、その指はなめらかに黒髪をかきわけた。そのままりんを引き寄せ、耳朶のそばに唇をおとす。そして、もう一度。
 耳元に、殺生丸の息づかいが聞こえた気がする。
「ひゃっ!」
 りんは間のぬけた声をあげて、殺生丸を突きとばした。
「わわわ!」
 突きだした腕を、そのまま万歳でもするように上に放つ。
「いま、なにか変な感じしました!」
「妖怪のわたしが気味悪いか」
 りんは首を左右にふった。
「そんなことじゃなくて、なんていうか、その」
 自分の声が鼓動でかき消されそうだ。
「それはどうでもよくて、なんだかワーってなったっていうか……!」


 軽く、殺生丸は息をついたようである。
「くだらぬ問いだった」
「え?」
――――――知っている。
 りんには、妖怪を隔てて見るつもりがない。彼女はその身の上から、「妖怪のような性根の人間」も、「人間のような性根の妖怪」も知っている。殺生丸という存在は彼女の中で妖怪とか人間とかいうまえに、ただただ「殺生丸さま」というものなのだろう。にもかかわらずそれを訊いたのは、すこし困らせてやりたいと思ったからかもしれない。
(…………じれているのか、このわたしが?)
 殺生丸はわずかに首をふった。そのようなことが、あるはずもない。
「だが、『変な感じ』か。やはり不快なようだな」
「ちがうよ……! ただワー!ってなったの」
 殺生丸は瞬きをした。
――――なんだそれは……。
 躰を内から焼き焦がすような欲望と、この無邪気な小娘の額を指で小突いてやりたいような気持が殺生丸の中で混じりあっている。これが愛玩動物だったら、撫で殺しているかもしれない。
「りん……」
 背に腕を回し、力を込める。殺生丸はもういちど、りんに顔を近づけた。
 間近で見る殺生丸の唇は、端正で美しかった。長い睫毛の奥の、ゆるぎなく見つめてくる金の瞳。それが幻ではないという証に、ひそやかな息づかいが口元にかかる。
「りん」


「わーーー!」
「!」
 甘やかな静寂をやぶったのは、りんである。またしても万歳の恰好をしている。あろうことか、突きとばし再び、という事態がそこに発生していた。
「りん……」
 りんは手のひらをわちゃわちゃさせている。
「『戸惑うことない』……なんて、やっぱり嘘!」
「なんのことだ」
「うあー!」
 あさはかにも、自分の思いつきに胡坐をかいていた。「戸惑い」すら飛び越えて、「甘い慄き」が心の臓をめちゃくちゃに叩いている。頬、というよりも頭全体が熱くてわけがわからない。もうとにかく、この場をなんとかしなかればならない。
「あの、ごめんなさい! そうだ、あたし、山菜摘んだのを縁側に出しっぱなしだったような? 邪見さまが間違って捨てちゃうかもしれないので、戻りますよ? じ、じゃあね殺生丸さま!」
 音階を踏みはずした声で言うやいなや、ありったけの力で駆けだした。その早いことといったら、残るのはふんわりとした匂いばかりというありさま。
 二度の突きとばしをくらった殺生丸は、りんのいた空間を抱いたまま呟いた。
「……逃げられた」



――――――おどろくほど壊れやすいもの。意のままに触れられないもの。なにか間違いでもあれば、その肌はやすやすと裂けてしまうだろう。しかも相手は、この手をすりぬけるのが上手いときている。まるで蝶や小動物のようだ。押さえつけることはできない。まだ加減がわからないから。この娘にはひとすじのかすり傷も、わずかな噛み跡もつけたくはなかった。
 りんはこの妖怪に生じた怖れにも似た困惑に気づいてはいないだろう。もっとも、そのようなことを嗅ぎとらせる気はさらさら無い。
 殺生丸はあえて口角をつりあげた。
(摘んだものを捨てられる? 邪見はもう人の食い物もよく心得ているぞ。下手な言いわけだ)
 今日のところは甲斐なく逃したが、それも不愉快というわけではない。すりぬけても、あの少女はすぐこの手のなかに潜りこんでくるのである。また捕らえればすむ話だ。
 さて、りんはあとでどんな顔を見せるだろう。肝の据わった娘だが、こんなときは意外なほどしどろもどろになって見飽きない。茹でられたような顔をして目をうるませているさまを、じっくりと眺めてやろう。悪くない眺めだ。そしてこんど突きとばしの技をしかけてきたら、無理やりにでも唇を吸ってみせようか。


 春の匂いが漂っている。りんと過ごさねば気にも留めなかったその匂いを、殺生丸は胸のなかに吸いこんだ。やわらかくて微かに甘い、ふしぎな香りだと思った。屋敷を囲む結界の桜樹たちも、淡い紅色の気配をまとっている。開花はさほど遠くないのだろう。
 この妖怪に花を愛でるという習性はない。それでもこの春は、蕾と言うものがやわらかくほころぶのを春疾風のような想いで眺めている。


< 終 >












2017年9月1日UP
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