【草苺】


――――なにがそんなに嬉しいのか。これはそれほど美味いのか。
 心のうちで、ささやかな謎が綿埃のように舞っている。
――――実などつけても、しょせん草は草であろう。
 殺生丸の眉間には、「疑念」という名の皺がうすく生じていた。この果実を口にしたことはないが、我が手で大物を仕留めたときの血の味には数倍劣るにちがいないのだ。

 やや難しげになった殺生丸の表情を見て、りんは首をかしげた。
「殺生丸さまも食べますか?」
 りんの膝のうえに、かわいらしい手ぬぐいが広げられている。そこにいくつも乗っているのは、すきとおった瑪瑙のような、草苺の実だ。さきほど殺生丸といっしょに摘んだ――――殺生丸はそれを見守っていただけではあるが――――この果実は、目をみはるような美しい色をしている。よく磨いた赤瑪瑙のさざれを、雪玉をつくるようにまあるく固めたらこんなふうになるだろうか。しかし草苺のほうが数倍まさると、りんは思う。なにしろこの実は、すばらしく甘いのだ。

「とってもおいしいんだよ」
 楓に持って帰るぶんはじゅうぶんある。りんは草苺をひとつつまむと、すい、と殺生丸の貌のまえに差しだした。一寸の他意もない自然なふるまいだった。
「はい、どうぞ」
 この娘は殺生丸の心の垣根をふんわりと通り抜けるらしい。いざなわれ、木の葉にたまった露をすくうように殺生丸は唇を近づけた。差しだす指先をかすめて、瑪瑙よりも美しい果実が殺生丸の唇のうちに吸いこまれる。
「……あ」
 りんは小さく声をあげた。指先に感じた唇の感触。わずかに濡れていて、あたたかい。そのやわらかな感覚にもかかわらず、りんの背中には雷に打たれたような衝撃がはしった。
「わわわ」
「なんだ」
 りんは慌てて手をひいた。
(…………なに、いまの)
 きゅうに頬が熱くなって、りんは頬を手であおいだ。
「ええと、今日はいいお天気だねえ!」
「……………」

 殺生丸は腑に落ちぬようすである。りんは心の臓がやけに落ちつかなくなって、咳きこむように訊ねた。
「そんなことより、どうかな、草苺」
 草苺…………肉を裂き、相手を屠る。飛び散った血汐が陽に透けると、ちょうどこんな色だ。ぼたり……と落ちる丸い血雫の形、鮮血の色をしたこの実は、まさしく血に似た味がするのだと思っていた。獣の本性をゆさぶるような、血の味だと。
「ね、ね、殺生丸さま?」
 すると殺生丸は、わずかに首をかしげて答えた。
「甘い」
「ね! おいしいでしょ」
 口中に、甘さと初夏の風のような香味が残っている。りんが好んで食していたものは、こういう味がするのか。
 殺生丸は遠く翡翠色に連なる山並みに目をやった。
「……不味くは、ないな」

「ふふふ」
 笑みがこぼれた。「人間の食い物」にも嫌いではないものがあるのかと、りんは嬉しそうだ。そして、さきほど殺生丸の唇がふれた指先を、たいせつな物でも庇うようにそっと掌でおし包んだ。途方もない僥倖の翼がその指先を止まり木にしたのなら、たとえ過ぎ去った感触だけになったとしても、とどめておきたかった。
(ここに、ずうっと残ってるといいな)
 手を見つめうつむいたりんのその指先には気づかず、殺生丸は山並みと空のきわを眺めている。


――――あまい……あまい、草苺。血の味ではなかった、草苺。それは、近頃のりんにも似た匂いがする。青臭いようでいて、おそろしく甘い、血の色の実である。


< 終 >












2017年6月1日UP
< back > < サイトの入り口に戻る >