【欲しいもの】
「ひゃー、指が固まってしまいそう」
「固まる?」
庭先で洗たく物を干していたりんは、廊下をゆく殺生丸に見とがめられた。
「指が赤い」
「あ、殺生丸さま! これはね、さっき汚れたものを洗ったの。まだ水が冷たいから」
あたらしい舘で暮らすりんは忙しい。舘住まいの身になろうと、自分の面倒は自分で見ようというつもりらしい。とはいえ朝方の水はまだ氷のようで、指の感覚なんぞたちまちどこかへ行ってしまう。
殺生丸はこころもち首を傾けた。
「必要なものがあれば用意させるが」
「殺生丸さま、ありがとう。でも欲しいものはないなあ」
この妖怪は言葉のとおり用意してくれるだろう。その気になれば湯の湧く不思議な桶だろうと、下働きの妖怪なりとも、どこからか調達してくるに違いないのだ。だが貧しい人里ですごしたりんには、じゅうぶんすぎる。
りんは洗たく物の籠を置くと、「ありがとうございます」と礼を言った。そんな仕草も、ずいぶん娘らしくなった。
それから指を口にあてると、すこし考える面持ちだ。やはり要望があったか。
「あ……そうだ!」
なにか思いついたらしい。
「あたしは、殺生丸さまが欲しいです」
それは、するりと出てきた言葉だ。なにもいらない、殺生丸さまがいてくれればそれだけでいい、そんな気持ちだった。だがよくよく考えれば、はしたない言葉のようにも受けとれる。
「あ! え?! わっ、変な意味じゃなくて、ただそのままの意味っていうか……!」
よけいに混乱する。
言ってから、りんはわずかに身を固くしたようだった。殺生丸がこわいというわけではない。ただ最近きゅうに距離が近くなって……すこし慣れないだけだ。
「あの……、うん! なので、気にしないで!」
やっとのことで口にする。自分でもなにを言っているのかわからないが、しかたがない。
りんは伏せた目線をさまよわせた。頬があつくてたまらない。あの早春の日、自分の想いはたしかに伝わった……と思う。だがそれからというもの、もうまるでふわふわしている。雲のうえを、はだしで歩いているみたいだった。
「ええと……殺生丸さま?」
ずっと黙っているのは、得意ではない。そっと上目づかいに、りんは殺生丸を見あげてみる。そのとき彼女の黒い瞳は、まんまるく見ひらかれた。
――――こんなことがあるだろうか。殺生丸の白皙の頬に、うっすらと赤みが差している。さながら、うぶな若者の態である。ふつうの若い男と違うのは、そのあわく紅潮した貌さえもおそろしく美しかったということだけ。咲き初める花びらが開く直前、わずかに濃いように。――――――息が止まるかと思った。
「殺生丸さま……」
「…………おどろかせるな」
「おどろく……?! 殺生丸さまが?」
「うるさい」
かつてこれほど柔かな声音の、「うるさい」があっただろうか。邪見が聞いたら魂消るにちがいない。
「みょうなことを口走るからだ」
棒立ちになっていた殺生丸は、そう言ってようやくりんの手をとった。銀色の睫毛がやけに艶めかしく、りんは心の臓が飛びだすのではないかと思った。
「薬は?」
りんは首をふる。
「赤いのは、水で冷えたからだよ。すぐおさまるから、平気。――――けっして、はしたないことを言って恥ずかしかったからじゃないよ?」
殺生丸はわずかに眼を細めたようだった。
「ほう。ではあれは、はしたない意味だったか」
「わー、違うー!!」
かつて村娘たちに聞いた艶話が、みょうな形で頭をかけめぐる。りんは「殺生丸さまのお顔も赤かったもん」と言おうとして、口ごもった。殺生丸がりんの手を己の頬におしつけたからだ。とてもあたたかった。
殺生丸は祈る者のように、りんの手を両手でつつみこんだ。体温と息吹が、冷えきった指をほぐしてゆく。
「こうすれば、おさまるか」
「……うん」
間近に呼気を感じながら、りんはそのひとに見とれていた。
(殺生丸さまも、おどろいたりするのかぁ……)
――――つよくて、きれいで、やさしい、化け犬の妖怪……殺生丸さま。ずうっとまえから知っているのに、はじめて知ることも、たくさん。こんな殺生丸さまをいま自分だけが見ているのが、なんだか、うれしい。
「どうした」
「あたしいま、殺生丸さまをひとり占め」
「満足か」
「うん!」
殺生丸はりんの瞳を見つめた。自然とその表情がうごく。笑む、というのはこういうことだろうか。
「わたしもいま、おまえをひとり占めだ」
水が冷たくても、いいことがある。だいすきなひとを、もっと知ることができるから。
冬に戻ったようなこんな日も、悪くはない。いとしい者が満足だと言ってくれたのだから。
――――ただただ幸せな、早春の一日である。
< 終 >
2017年2月1日UP
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