【夢惑い】


 殺生丸は組み敷いた小娘の帯を引きぬいた。肌をあらわにされて、悲鳴に近い拒絶の声がひびく。――――――この人間を、幼いころから大切にしてきた。無事に暮らせるように、いつも息災であるように。長じてからは良くない男が近づかぬよう心を配ってきた。誰であろうともこの小娘……りんを傷つける者を許す気はなかった。
「顔を見せよ」
 あらがう腕を押さえつける。乱れた黒髪が、まるい頬を隠した。りんの表情は見えない。殺生丸は苛立っていた。
「りん、わたしを見ろ……!」
 守るべき者を自ら害なわんとする、この愚か者の顔を!


――――殺生丸は瞼をあげた。空はまだ夜の名残をとどめて、ほの暗い。銀色の髪に、ひとひら、雪が舞い落ちてきた。
(夢、か…………)
 一行が逗留する山家の母屋には、りんと邪見がまだ眠っているだろう。殺生丸は横になってやすむ習慣になじまない。昨晩も母屋が見えるこの大樹の下で、一夜を過ごしたのだった。
 殺生丸は手のひらを見つめた。血汐が早くなっている。ほんのわずか微睡んだ間に、みょうなものを見た。夢には違いない。だが目覚めてなお、胸に澱のようなものがつかえている気がする。





…………たしたし、たしたし。
 かすかな、響き。この妖怪でなければ気づかぬであろう、ちいさな足音が聞こえる。裏の厨から母屋の横手をまわって、こちらへ。いかにも寒そうな、小刻みの歩みだ。
「殺生丸さま」
 声をかけられた殺生丸は、瞳だけをそちらに動かした。
「……もう起きていたのか」
「うん。今日は邪見さまと薬草を売りに行くの。ご城下に市が立つんだって」
「そうか」
 りんは菫色の明け空を見あげた。
「殺生丸さまも母屋でやすんだらいいのに。今日は雪になりそうだよ」
 殺生丸は答えなかった。ひとつ屋根の下で夜をやり過ごすには、匂いが近すぎる。りんの心地良い匂いは、昔と変わりはしない。だがいまは己を狂わせる甘い毒にもなる……そのことに殺生丸は気づいてしまったのだ。

 当のりんは、殺生丸のそばに来ると怪訝そうな顔をした。
「殺生丸さま……こわい夢でも見たの?」
 こわい夢。たしかに、こわい夢。けれど、とどめようもなく狂おしい願望でもある。
「殺生丸さま?」
「…………見ていない」
 りんは殺生丸の顔をのぞきこんだ。
「だれかが言っていたけど、夢にはなにか意味が隠されているんだって。殺生丸さまは夢占できますか」
「いや」
 りんは「そうなの?」と、屈託ない。
「でもこわい夢じゃないのなら、よかった」
 おまえの夢を見たのだ。見てはならぬ、夢。幸せであれと守ってきた者を、この手で傷つける夢。いったいなにを意味するというのか。わたしの内に生じた欲を知り、おまえが離れてゆくというという未来か。

 晴れぬ想いを感じたのか、りんはそっと首をかしげた。
「心配いらないよ。大丈夫。……きっと大丈夫」
 殺生丸というこの大妖怪に憂いことがあるとも思われなかったが、そう言わずにはおれなかった。
 りんの瞳はまっすぐに殺生丸を見る。さきほどの夢では見えなかった、黒い瞳。信頼と親愛のこもった、いとおしい瞳。この妖怪を見る眼差しには、わずかな打算も怯えも宿ってはいない。


「…………」
「殺生丸さま?」
 殺生丸はかすかに息をつく。おだやかな安堵が、あたたかい染みのように広がっていた。
「おまえが言うのならば、そうなのだろう」
 根拠などまるで無い。だがこの娘が言うと、ほんとうにそんな気もしてくるのだ。まっすぐに見あげてくる瞳のせいだろうか。それとも、裏心を持たない声色のせいか。
 殺生丸の言葉を聞くや、りんは嬉しそうな笑顔で頷いた。
「きっと、そうだよ」
 もうすっかり安心した顔だ。
「じゃ、あたしもう行くね。商いは早いうちが勝負なの!」
 勇ましい言葉を残し、踵をかえす。さっぱりしたものである。
「しばらくここにいるなら、手仕事の材料も買ってきます。つぎの市で売れるように」
「阿吽もつれて行け。なにかあればわたしが行く」
「はい!」
 殺生丸は目を眇めた。
(眩い……)
 まるで陽光だ。心にまといつく濃い靄も、その耀きに払われる。たとえ靄の種が、彼の内で揺蕩い続けていたとしても。





 殺生丸の眼差しの先に、またひとひら、雪が舞い降りた。
――降りこめられれば、しばらくは山家暮らしが続くだろう。その間に、おまえの光がわたしの愚かさを消し去るだろうか。それともおまえの信頼を引き裂いて、この殺生丸が欲の中へ引きずりこむのが先か。わたしはおまえを我がものにしたいのだ。…………りん、おまえにとっては悪い夢であろう。守り続けると誓った者が、この有り様なのだから。いまならまだ間に合う。――――逃げるというなら、追いはしない。


 灰色の雲が低く垂れこめはじめている。殺生丸は雪雲に手をのばした。そうすれば雲の上にある日輪に手がとどくとでもいうように。
(……りん)
 まだ夜が明けたばかりだというのに、陽の光が恋しい。その姿をあらわせ、この身を照らせ。そうしてこの眼を射るがいい。

 手をかざした曇天に、爪が鈍く光る。思いのほか雲が寄せてきているようだ。空は雪雲がすきまなく埋め尽くし、やけに静かだった。
 殺生丸は我知らず口にだす。
「また雪が深くなる。早くわたしの元に戻ってこい」

 真白い雪片が続けざまに落ちてきて、膝の上で消えた。


< 終 >












2017年1月1日UP
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