【闇のなかの、きんいろ】


 雨の音が、する。否、耳にはいるのは雨の音ばかり。刻は深更といってもよい。邪見はすでに下がり、寝所には殺生丸とりんだけだ。閨の戸は開け放されているが、中の様子はうかがい知れない。板戸のかわりに、はげしい雨脚が寝所を隠している。

「殺生丸さま……」
 吐息の下から、殺生丸の名を呼ぶかすれた声があがった。かたく閉じた瞼が、黒い睫毛を震わせる。くまなく肌を這う手のひらに、りん――――いまは殺生丸の妻である――――は身をよじらせた。
「……殺生丸さま」
 銀髪の手ざわりと闇に腕をさまよわせ、りんは殺生丸の頬をさがす。甘やかな熱にうかさた頭と躰は、思うように動いてくれない。重い湯の中でもがいているかのようだ。焦れたりんは、うすく眼をあけた。
「あ、……ここに」
 そうささやき、手をのばす。その手のひらのそばでは、両の眼が闇に光っていた。双つの、金色の火だ。世間に眼差しの力が強い男、というのはいくらでもいるだろう。だがこんな光を持つのは夜の獣……そうでなければ人外と云うほかはない。とはいえ、妖怪であろうと人間であろうと、りんの躰は他の「男」というものを知らぬ。褥でこんなふうに瞳を光らせているのが普通でないことを、この娘は知るよしもないのだ。

 閨の暗がりに、金の双眸のみが光る。
(瞳だけでお顔が見えないなぁ……)
 りんは、殺生丸の顔を見たくなった。それでなくとも、その最中は目を閉じてしまうことが多いから。そうだ、灯りをつけておけばよかったんだ、と思ったものの、やはり明るいのは恥ずかしい。殺生丸にとってはどちらでも同じなのだが、こんなときにはついそれを失念してしまう。
 とりとめもなく思考をさまよわせていると、折よく、というべきか、夜空に雷鳴と稲光がはしった。りんは小さく「あっ……」と声をあげる。稲妻にくまなく照らされた殺生丸のかんばせが、りんの眼に焼きついた。
…………このひとは、こんな表情もするのだろうか。いつもの静謐な金色に、わずかながらだが激情と蜜のように甘い苦悶が滲みだしている。りんだけが見た秘事だ。この感情をどう言いあらわせばいいのだろう。「いとおしい」、そんな想いに近いだろうか。常には水のように泰然とした殺生丸が、自分を抱くときにこんな眼をしていた。
――――もっと見せて、殺生丸さま。もっと……。

 唇が触れる、離れる。手のひらが撫でる、爪をたてる。膚と膚が擦れ合う。噛みつくように、そして慰めるように。息がくるしい。
 りんはかすれた声で、ようやく言葉をつむいだ。
「……殺生丸さまの、きんいろ」
「…………なんだ」
「どんなに暗くても、そばにいてくれるのがわかるから、すき」
――――親のない児は、里の厄介者だ。ひとりぼっちの小屋の中で目を覚まし、食べ物をさがして、眠るだけの毎日。花が咲いても、夕焼け空が見事でも、なんの感動もおきはしなかった。声といっしょに、心まで消えてしまったみたいだった。
 殺生丸さま――――その灰色に塗りつぶされた世界から、あたしを救いだしてくれたひと。ただ日々を生きのびているだけの自分に、きれいな色や匂いや、楽しいことを思いださせてくれたひと。空の色、月の光、花の匂い。そよぐ風、笑い声、あたたかな手。そして――――いつも見守ってくれる双つの、きんいろ。
「だいすき」
 りんは殺生丸の頬を両手ではさんで、口づけをした。
――――だいすき、だいすき、だいすき。


 金色のまなざしと唇が、りんの肌を這ってゆく。りんの唇が、殺生丸の肌に接吻する。ふたりの息は雨の音に溶けあって寝所を満たした。種族のへだたりがそうすれば埋まるとでもいうように、殺生丸とりんはひとつになってゆく。――――いや、正しくはそうではない。彼らはとっくの昔に、一蓮托生だったのだ。

 夜空の下は雨、雨、雨……雨の音。木々の葉を叩き、軒下で撥ね、小さな川さえ作る。遠くからは、雷鳴がきこえている。雨はまだ降りつづくのだろうか、天から落ちる帷はますます厚く褥を隠し、夜はさらに深まりゆくようである。


< 終 >












2016年8月1日UP
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