【野の花】
それはある夏の日のこと。ふだんは訪れる客もない庵の戸に、銀の髪をもつ者が立ちふさがった。
「舘の庭を、おまえに任せたい」
そう切り出された妖怪は、相手の顔をまじまじと見つめた。
「ご先代さまが身罷られてから久しくお見かけしませなんだな、若さま。舘とはあの天空のお屋敷のことで?」
殺生丸は短く「否」、と答えた。
「あらたに定めた、わたしの塒(ねぐら)だ。人間にとって好もしいように整えろ」
妖怪は目の前に立つ長身の男――かつてのあるじの子息――を目をしばたかせながら見つめた。
「……噂は、ほんとうらしい。人間の娘にたいそう入れ込んでいるとか……」
殺生丸は軽く舌打ちをした。
「さっさと答えろ。やるのか、やらないのか」
声にはしだいに苛立ちが込められてくる。妖怪は顔の前で両手をふってみせた。
「やらんと言うのではない。しばらく仕事をしとらんで暇でしたからな」
「……では任せた」
「まあそうお急ぎにならんでも。もう一度うかがいますが、その舘、若さまが住まわれるということでよろしいか」
「ああ。それと人間の娘だ」
妖怪は目をむいたものの、意外だとは思わなかった。彼は先代のことをよく知っていたからだ。
「となると……その娘、娶られるのですかな」
殺生丸は眉根を寄せた。
「おまえには関係ない」
それまでの率直な物言いが、急速に不透明な色をにじませる。本人もまだ確信していないというところだろうか。
これは詮索しすぎるのはよろしくない、そう思った妖怪は話題をかえた。
「して、いつまでに?」
「舘の造作にはもう取り掛かっている。庭も春までには仕上げるように」
「それはまた慌ただしいことで。しかしご先代さまにいただいたご恩、すべてをお返しできなかったのを悔やんでおったのです。いまがご恩徳に報いる機会と思うて励みましょう」
殺生丸は頷く。この妖怪が自分に従うのは殺生丸自身の器のためではなく、偉大な父のおかげだということは、じゅうぶん承知していた。
「しかし、ひさかたぶりの仕事ですわい。植える物の支度もございますれば、さっそくとりかかりましょう」
さまざまな樹木や草花を頭に思い浮かべながら、庭造りの妖怪は声を落とした。
「ふむ。若さまはごぞんじあるまいが……」
「なんだ」
「野の花を掘って庭に植えかえると、最初の一、二年はなんとか花を咲かせる。だがそのうち元気がなくなり、数年で枯れてしまうことが多いのです」
「それがどうした」
「なぜ枯れるのかはよく分かりませぬ。土か水か、なにかが合わないのでしょう。だが野に生きる花だけではない……それは、人の子でも同じだと存ずるが」
一瞬、殺生丸の瞳が鋭く光った。
「野の花は、野に置けと?」
「そのほうが、幸せでございましょう」
爪の一閃を受けるかと身構えたが、殺生丸は彼方を見つめる眼をしたのみだった。
「それでもわたしは、決めたのだ」
「は……」
なにを決めたのか、とはもう訊ねなかった。殺生丸の言葉から薫るのは、ゆるぎない覚悟だ。この寡黙で強情な妖怪が「決めた」と口にした以上、天地が裂けようともその娘をそばに置くだろう。そうまでして手元に置こうとするならば、命に代えても守るであろうことは想像がつく。なにをおいても、あのかたの血を継いでいるのだから。
「それに……」
殺生丸の目は、かすかに細められた。
「あの花はわたしが去れば、足を生やしてでも追ってくるだろう」
妖怪は心のうちで、あっ!と声をあげた。一瞬、なつかしい先代の面影がよぎったからである。彼は闘牙王のほかにあるじを持つつもりはなかった。それであの日、早々に暇乞いをしたのである。しかしその行為は、浅慮にすぎたかもしれない。
「ふむ。おもしろくなってまいった」
「なに」
「わしは良き頃合いに生きておるらしい。蒲公英の綿毛が、ついに根をはる場所を選ばれた。それを目のあたりにする機会に恵まれたようです」
「蒲公英?」
「春、地面に咲く黄色い花でござります」
「……わたしは蒲公英などというものではない」
「ハハハ。もののたとえ、ですじゃ」
すると殺生丸はつぶやいた。
「あの花ならば、りんのほうが似ている」
そのとき妖怪は、この気高き御曹司がいたく気にかけているという娘の名を思いだした。そうか、りんとかいう名だった。
妖怪はすこし首をかしげたあと、良き思いつきを得たというように告げた。
「いかがでしょう、殺生丸さまとりんに野山のような庭をお作りする、というのは」
「たのむ」
(さて、忙しくなってきた)
空を翔ける銀色の軌跡を見送りながら、妖怪はもう庵を閉じる支度をはじめていた。
あの若さまのお頼みとあっては、生半可な仕事をするわけにはいかん。庭にはどのような花木を植えようか。りん――それは蒲公英のような娘であるという。では飾らぬ趣のある花、樹なら食い物のとれる種類がよいだろうか。いやここは慎重に、本人のひととなりを見てから決めたほうがよいな。あたらしい塒(ねぐら)は殺生丸さまとともに、りんという一輪の花が生きる場所なのだから…………庭造りの妖怪はそんなことを考えていた。
舘のあるじらが到着するまで、あと半年ばかり。着くころには、早春の花々が咲いていることだろう。
< 終 >
2016年7月1日UP
< back > < サイトの入り口に戻る >