【いとしい糧(かて)】


「ああ、おなかすいたー」
 りんは、うーんと伸びをした。今日は一日、殺生丸と野歩きを楽しんだ。舘をかこむ山並みを空から眺め、地におりれば花の咲く場所をさがす。かの妖怪といっしょだと、すぐに刻がたってしまう。結界の森に戻るころには陽は落ちて、空は薄紫から紺へと色をかえつつあった。
「なにか食べたいねー」
「わたしもだ」
 りんは目をみはって殺生丸を見あげた。紺色の夕空を背に、彼の銀髪がきわだって見える。
「え。殺生丸さまもなの!? めずらしいね」
 すっかりおどろいて、りんは伸びをしたまま動きを止めてしまった。この高貴な大妖怪が空腹を口にすることなど、あっただろうか。すくなくともりんは、聞いたことがない。
(やっぱり牛かな、殺生丸さまが食べるの)
 そんなことを思ったとき、りんは両の腕をつかまれていた。気づいたときにはもう、草の褥に組み敷かれている。おしつぶされた若草が、匂いたつのがわかった。背の下にやわらかく当たるのは、あの白い妖毛だろう。
「殺生丸さま?」
 応えはない。殺生丸はりんの腕をおさえたまま、彼女の帯に牙をたてていたからだ。


 殺生丸はりんの細帯を咥えて引き出すと、白い牙で結び目をといた。衣擦れの音がする。草の上に帯が、はらりと落ちた。そのようすは、美しい獣が獲物のはらわたを引き摺り出すのにも似ていた。
「殺生丸さま」
「なんだ」
「あたしを、食べるの?」
 身の毛もよだつ問いかけだが、りんの声はおびえてはいなかった。今日はどこへいくの、と問うた今朝の声音といささかも変わらない。

 殺生丸はやはり答えなかった。こんどは、りんの小袖の衿を咥えていたからである。左の身頃、そのつぎは右の身頃を口で取りさってゆく。そうやって不出の宝物でも取りだすように幾枚かの小袖を剥ぐと、着物の海のなかに無防備な腹があらわれた。
 殺生丸は、唇をわずかにひらく。
 りんは目を閉じた。食べられたら、もう一緒にはいられない。それはたまらなく哀しいけれど、この妖怪の空腹をみたすことができるのならば、うれしいと思えた。


「りん」
 殺生丸はなめらかな曲線をえがく脇腹に口をつけると、こころおきなく膚を吸った。唇と舌の感触に、むきだしの腹がびくりと震える。祝言をあげてから幾夜も過ぎたが、それはまるで生娘のような反応だった。
 りんはうすく瞼をあげると、ささやく。
「…………殺生丸さま、まだ食べないの? おなかすいて、つらいでしょう」
「喰ったりはせん」
「え?」
「おまえを喰ったら、その間のぬけた表情が見られなくなる」
「えー……っと」

 「食べる」というのを、りんはすこし取り違えていたらしい。体を喰らう、というのではない。「ここで抱きたい」――――彼の「空腹」には、そういう意味がこめられていたのだ。
 りんの顔は見るまに赤く染まってゆく。艶っぽいやりとりさえうまくできないのが、恥ずかしかった。
「間のぬけた……って、ひどいなぁ」
 顔を覆いたくても、両手をおさえられていては隠しようもない。羞恥にうかされて、熱病者のように瞳が潤んだ。
「殺生丸さま……顔が熱いです。おなかは…………すーすーします」
「……じきにどこも熱くなる」

 殺生丸はりんの頬に自分の頬をおしつけた。当人の言うとおり、やわらかな頬はかなり火照っている。それは生きている者の、血のかよった熱さだった。このぬくもりが、りんの中に燃えている命の証しでもある。
「喰いはしない」
「……うん」
「だが、おまえをぜんぶよこしてもらおう」
 美しい金色の瞳が、憑りつかれた者のように光っている。
――――その命ごと、わたしにすべて委ねろ。おまえの身と魂にやどる熱を守るのは、この殺生丸だ。

 殺生丸はりんに覆いかぶさると、唇を、首筋を、膚を吸った。りんの、あかるい命の匂いがする。そのくせ、月夜の花びらのように、ひそやかな湿りをおびていた。この不可思議でせつないものが、肉を喰らうことなどよりもずっと愛おしくてならない。


 殺生丸はりんの胸に顔をうずめた。
 冷たい夜気にさらされていたはずの膚に、汗がうきはじめている。りんの唇からは、熱い息がしのび出た。


< 終 >












2016年2月1日UP
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