【まじないの言葉】
もうすぐ、旅がおわる。りんを人の世から妖怪の世界へいざなう道のりと時間も、あとわずかだ。
西へと向かいながら、りんは雪が色あいを変えているのに気がついた。遠くの山並みも、白の中にやわらかな気配をふくんでいる。冬を追いやり、春が近づいているようだった。
「殺生丸さま。こんど人里の近くを通ったら、寄ってもかまいませんか」
携行している食料が少々心もとない。りんは道中で得る珍しい薬草を、村や城下で食料と交換している。旅をつづけるには、そろそろどこかに寄らなければならない。
すると殺生丸は、りんの申し入れをしりぞけた。
「その必要はない。屋敷はもうすぐだ」
では殺生丸が根城にしたという場所が、もう近いのだろう。
りんの声は浮きたつようだ。
「だったらなおさら、しっかり食べておかないと。お屋敷に着くまえに行き倒れちゃったら、たいへんだもの」
「行き倒れはせん」
それを聞いて、少女は腕白な子供のような顔をしてみせる。
「あたしは欲張りだもの、やっぱり足りなくなっちゃうよ?」
殺生丸は、りんが見とれるほど優美に首をかしげた。
「おまえはわたしほど強欲ではなかろう」
この気高いひとの、どこが強欲だというのだろう。彼がすすんで豪奢を欲したことは一度もない。ましてあれほど執着した鉄砕牙 も……冥道残月破のことすらも、いまは未練ひとつ残してはいないのだ。この大妖怪は、自分自身の力でそれを超えたのである。
「殺生丸さまはちっとも欲深に見えないけど」
「おまえは…………なにもわかっていない」
殺生丸は金色の瞳を光らせた。心が軋む。
――――知っているか、りん。わたしがおまえを欲しているということを。そばに置くだけではあきたらず、おまえのすべてを我がものにしたいと思っている、この欲深さを。
「殺生丸さまは欲張りなんかじゃないよ。あたし、知ってるもの」
「これでもか」
殺生丸はりんを乱暴に抱きよせた。両の腕の中の娘は華奢で、玻璃の細工のように折れてしまうのではないかと殺生丸は思った。
この行為と強欲に、どんな繋がりがあるというのだろう。なぜ……こんなにも、つらそうな声をするんだろう。
りんは思いきって、鎧に守られた胴を抱きしめかえしてみた。それはひんやりと、冷たい。
「殺生丸さま。あの満月の夜…………覚えてますか」
それは舘への旅をはじめた秋のことだった。
「殺生丸さまはあのとき、『そばにいるだけでいい』って、あたしに言ったの」
「覚えている」
――――たしかにわたしは、そう言った。『そばにいるだけでよい』、と。
おまえのそばにいるのが、苦しかった。もし手折ってしまえば、りんのなにもかも……その思いさえも、むごたらしく壊してしまうかもしれない。なのにわたしは、飢えた獣のようにおまえを欲している。
いっそのこと手放してしまえばいい。そうすればこの苦悶から離れられる。だが、できるはずもない。おまえを手放すのは…………もっと苦しいのだ。ならばそばに置きつづけようと思った。おまえへの想いに苛まれ、この身を焦がしながら。おまえは変わらず、そばにいればよい。
「殺生丸さま」
「…………なんだ」
「あたしね、ずっと殺生丸さまのそばにいるよ」
りんは鎧にぎゅっと頬をつけて、ささやいた。
「だから殺生丸さまが迷ったときは、おそばで、なんどでも……なんどでも言うの。殺生丸さまは欲張りなんかじゃないって」
「愚かな……」
「うん。あたしはお利口さんじゃないもの。だから、なんどでも、殺生丸さまがいやになるくらい、おそばで言いつづけるよ」
りんを抱く殺生丸の指先が、わずかに動いた。
「わたしの欲が、いつかおまえを壊すだろう」
「そうなったとしても。殺生丸さまは欲張りじゃないよ」
「あのときわたしに出会ったのを後悔することになる」
「後悔するかしないかは、あたしが、じぶんで決めたいの」
殺生丸は言うべき言葉をうしなった。感情を消した声をようやく発するのに、ずいぶん時間がかかった。
「おまえに……わたしがわかるはずがない」
「それでも。だって、ほんとうのことだもの。殺生丸さまは、欲張りなんかじゃない」
それは、まじないの言葉だ。殺生丸が自らにかけた呪縛をわずかながら和らげる、癒しの護符。
――――殺生丸さまは、欲張りなんかじゃないよ。
言霊が子守唄のようにしみこんでくる。狂おしく愛しい匂いが、間近で薫った。
殺生丸は目を閉じる。りんの匂いがいつもより深く入りこんでいた。ああ、この感覚はいつ以来だろう。舘へ向かう日々のなか、殺生丸はりんに触れることを極力避けてきた。純然たる妖怪の本性からは想像しがたい、峻烈な自制だった。
それを打ち壊そうという者がある。体当たりしてくるようにそれをするのは、殺生丸が守りたいと思う当の本人にほかならなかった。
「殺生丸さま、お願いしてもいい?」
「……なんだ」
「もうすこしだけ、こうしてて」
りんは、さらにきつく抱きしめてくる。殺生丸の腕がかすかに応えた。
「りん、舘は近い」
「……うん」
「準備を…………しておけ」
殺生丸はこの旅とともになにかが終わり、なにかが始まる気がしていた。それが自分とりんを変えるのか変えないのか、殺生丸はもう思い悩まぬべきだろうと思った。導いてきたつもりで導かれていたのは、己のほうだったのかもしれない。
殺生丸の中で、黄金色の鈴をふるうような声がこだましている。
――――殺生丸さまは欲張りじゃないよ。殺生丸さまは、欲張りなんかじゃない。
寒さがやわらいだせいだろう、冬木立にのしかかっていた凍て雪が、音をたてて落ちた。はねあがる雪片から守るように、殺生丸はりんをかき抱く。凛としたその後ろ姿は、雪華よりも白い。りんを守護する銀色の髪が、晩冬の陽射しにきらめいて見えた。
舘までは、あと少しだ。
< 終 >
2016年3月1日UP
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