【浅春の藤、わらう】
舘より眺める風景から、雪の色が消えた。周囲をめぐる木立も、心なしかやわらかな色に変化している。いよいよほんとうに春がやってくるらしい。
「屋敷の配置は、もう覚えたか」
りんとともに結界の中を歩みながら、殺生丸は訊ねた。舘を手がけた妖怪はずいぶんと考えぬいたそうで、ここはおどろくほど住み良くできている。殺生丸が逗留するだけならば設けなかったであろう厨や湯殿も、ぬかりがない。とはいえ貧しい人里で暮らしたりんには、この丘全体が舘の土地だと言われると、目がまわる思いだ。
「うーん、やっぱり広すぎるよー」
「あちらには休息所を配した」
「あっ、四阿(あずまや)だよね!」
りんはその簡素な建物に駆けよった。風通しの良いそこに腰をかけると、光にみちた舘の敷地が一望できる。
「こんなに見晴らしのいいところがあったんだ」
りんはあたりをぐるりと見わたした。なにやら不思議な心もちがする。昨年のおなじころは人里で暮らしていたのに、いまは殺生丸とひとつ屋根の下なのだから。
「ふふふ」
「なにがおかしい」
「うれしいの」
そう言って殺生丸を見あげたりんは、こんどは彼の背後にかかるものに興味をひかれたようだ。目ざといのは、りんの性分である。
「殺生丸さま。あれって、藤?」
それは軒から垂れて、蔓のような枝をいくつもわたしている。りんは四阿の屋根へやんわりと絡みついている黒い枝を見つめた。里にいたころ、野藤ならば目にしたことがある。もしこの樹が藤だとしたら、四阿に懸かる薄紫色の花房はどんなにか美しいだろう。
「花、いつ咲くかな。武蔵の国より早いかな」
殺生丸は答えなかった。いや、答えられない。こちらに向けられた翳りのない瞳、そして艶めいて微笑むその唇から、一寸も目をそらすことができないのだ。
殺生丸は黙したまま、四阿の柱に手をついた。白い袂と銀の髪が、りんを覆う天蓋になる。
りんはそれを陶然と見あげた。まるで、真白な藤の隧道の中にたたずんでいるようだと思った。
「りん」
殺生丸は少女の頬へ手のひらを添えると、そのまま下へとすべらせた。やわらかな唇を、端整な親指でなぞる。りんは、触れられた唇がかすかに震えるのを感じていた。それは殺生丸が接吻のまえにする行為だったからだ。
彼がりんにする口づけは、決して手荒というわけではない。むしろ散りやすい花びらに唇をよせるように、あるいは落ちそうになる白露を掬うように、やさしかった。
しかし殺生丸とそれをしたのは、つい先日のこと。それまでこの少女の唇は、喋るのと、ものを食うことばかりに使われてきた。それがずっと想いつづけてきたひとと、唇と唇で、言葉にならない想いをかわしあうのだ。われ知らず力んでしまうのも、当然かもしれない。
「……りん、肩に力が入っている」
「うん」
「こわいのか」
「…………ううん」
殺生丸がそのかんばせを寄せた。おたがいの頬が触れあうほど、近い。りんはこらえきれないように、目をとじた。
――暗い視界のなか、さらさらと銀の髪が自分にふりかかる音がきこえる。…………それからかすかな、こつんという響き。
「ん?」
りんの瞳が見ひらかれた。目のまえには、殺生丸の秀麗な顔がある。しかしりんの唇は、彼の唇に塞がれてはいなかった。
それはどう見ても、接吻というものとは趣きを異にしている。むしろ、熱を出した童とその親のあいだで目にするたぐいのものかもしれない。――――りんの額と殺生丸の額が、くっついているのだ。
「こつん、って…………え、おでこ?」
「ああ。地蔵のように固まっているからだ」
殺生丸は額をあてたまま、つい、とりんのおでこを押した。
りんはわけもなく可笑しくなって、くすくすと笑った。殺生丸の瞳もわずかに細められ、微笑をふくんでいるようにも思われる。それはりんだけが見ることを許された、この大妖怪の一面だった。
「じゃあねぇ……」
殺生丸のおだやかな瞳を見たというそれだけで、りんはのびのびとした気持ちになっている。陽ざしにいざなわれて、固いつぼみがゆるむのにも似ていた。
「こんどはあたしが押してもいい? おでこ」
「すきにしろ」
りんは額をくっつけたまま、そうっと殺生丸を押した。
「えい」
「これでは鹿の喧嘩だな」
ぼやきながらもこの他愛もない遊びにつきあう気があるのか、殺生丸はふたたび額を押しかえしてくれた。
りんは黒曜石のきらめきで目を細める。
「あたしも殺生丸さまも、鹿みたいに角がなくてよかったね」
「唇にも角はないが?」
「んん?」
唇の押しあいとなると、それは口づけのことだろう。りんはちゃっかり聞かなかったふりをして、また額を押しつけてくる。
「まだ押すのか」
「殺生丸さまとあたしのおでこ、どっちが固いかなーと思って」
藤のつぼみも成さぬこの浅春に、花ほころぶような忍び笑いがこぼれた。
「殺生丸さまのおでこ、あったかいねえ」
舘の結界をつつむ空気は、いまだ肌寒さを残している。けれど四阿におちる白雲母のような木漏れ日は、すでに春の輝きを宿しているように思われた。
「咲くといいねー、藤の花」
「ああ」
「もっとあたたかくなったら、また見に来ようね」
「ああ」
りんは額にすこし、力をこめた。
「またいっしょに、だよ。わすれないでね」
「こんどはおまえの道案内、でな」
銀と黒の前髪をふわふわと絡ませたまま、ふたりは日なたで笑っていた。おだやかな、晴れた午後である。
< 終 >
2015年12月1日UP
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