【うつし世のえにし】


 夏の強すぎる陽差しも近ごろはやわらいで、戸を開け放した部屋には涼やかな風がはいってくる。殺生丸の舘の一室では、りんと邪見がなにやら談笑しているようだった。
「邪見さま。このあいだのこの草紙、とってもおもしろかったよ」
「そうじゃろうとも。都で購った品じゃからな」
 邪見は鼻高々なようすである。彼のあるじのみならずこの老妖怪もりんへ物を与えるのが楽しみのひとつになっているらしく、稀なる草紙やら小物やらを持ってきては悦に入るという具合だった。

「ふしぎなお話がたくさんあってね、これは生まれ変わってまた恋仲になった、っていうめずらしい夫婦のお話なの」
 草紙の内容をひととおり説明すると、りんはちいさく首をかしげた。
「ね、邪見さま。生まれ変わるまえの邪見さまって、どんなだった? やっぱり、緑色の妖怪?」
「ふん。生まれるまえのことなんぞ、知るわけなかろうが」
「邪見さまもなんだ。あたしも、ぜんぜん覚えてないの」
「まあ……ふつうはそうじゃろ」

 りんはしずかに邪見を見つめている。邪見はわけもなくうろたえた。りんの瞳を見て、底まで澄んだ深い深い湖のようだと思った。
「な、なんじゃおまえ。わるいものでも食ったのか」
 するとりんは、あけはなした障子のむこうに続く、のどかな山並みへと視線をうつした。
「…………あたしね、生まれ変わるってよくわからないの。別の子としてうまれて、生きて、楽しいことや悲しいことをたくさん経験して……。その子はあたしの見てきたことも感じたことも、殺生丸さまとすごしたことも、なんにも覚えてないんでしょう? だったらそれは、もう『りん』じゃないように思えるよ」
 邪見はなぜか、全力で否定しなければならないと思った。それは戦慄というものに近い。だが出てきたのは、恰好のつかない台詞でしかなった。
「…………いや、そうかもしれんが、以前のことを覚えている者もときどきはおるじゃろう。この草紙の夫婦みたいにな」

 りんは微笑んだ。
「そうだとうれしいなあ」
 老妖怪は息をのんだ。その眼差しがあまりにも美しかったからだ。
「邪見さま」
「う、うむ」
「あたしね、『いま』いるあたしの全部で、殺生丸さまを好き」
「………………」
「たったいちどの命だもの。『思いだせなくたって、つぎに逢えなくたって、もうじゅうぶん!』ってあたしも殺生丸さまも思えるように、じぶんの全部をかけて殺生丸さまを想ってるよ」

 邪見はかぶりをふった。たったひとつ、殺生丸がりんに関してだけは冷徹でいられないということを、この長年の従者は知っていたからだ。
「……それ、殺生丸さまには言うな」
「それ?」
「たったいちどのなんとかだから――、とかそういうことをじゃ」
 りんはしばらく沈黙していたが、ゆっくりと答えた。
「でもね、殺生丸さまには、ぜんぶわかってると思う」
 もう邪見は口をきくことができなかった。なにか言わなければと思ったが、とつぜん胸を刺しぬかれた者のように、なんの言葉も出てきはしなかった。


 りんは徒然に草紙の頁をめくっている。
「殺生丸さまって強くてりっぱな大妖怪だから、こんなふうに草紙に描かれるかもしれないよね。戦国一の化犬妖怪、気高き殺生丸のおはなし。むかし、むかーし……」
「………………」
 昔語りをされるわらべのように、邪見はただ、りんの声をきいていた。
 ずっとこうしていられればよいのに…………流れゆく刻から守ってくれる結界があれば、殺生丸さまはどれほどお喜びになるだろうか……、そんなことを、邪見はぼんやりと考えていた。



* * * * *


「邪見さま」
「…………」
「邪見さまってば」
「な、なんじゃ。おおきな声を出しおって」
「おおきくないよ。ぼうっとして、具合でもわるいの?」
「なんでもないわい。で、なんなんじゃ」
「あたし、洗ったもの干しっぱなしにしてたの。もう行かなくちゃ」
「へ?」
 どれくらいそうしていたのだろうか。気がつけば、赤い陽が部屋の奥までさしこんでいる。

 りんは草紙を置くと、立ちあがった。ひらりとこちらを振りかえるようすは、胡蝶が身をひるがえすのによく似ている。
「そうだ、邪見さま」
 それはふだんの彼女のままの、明るい口ぶりだった。
「あたし、殺生丸さまに『もうじゅうぶんだ』って思ってもらえるように頑張るけど、お別れのときがきたら、やっぱりまだ心残りだ、ってじたばたしちゃうかもしれない。そしたら、『おまえはじぶんの全部で殺生丸さまをお慕いしてたんじゃろ!』ってあたしを叱ってね」
 そうしてりんは、「じゃあ、またあとで!」、という声をのこし、辻風のように部屋を出ていってしまった。
「お、おいっ……わしはいやじゃぞ!」



 居室には老妖怪だけが残された。草紙の項が吹きいる風に、はらはらと捲れてゆく。
「りんの馬鹿者め……」
――――あのかたのお気持ちは、おまえが思っとるよりずっと深いんじゃぞ。旅をはじめたころ、おまえは殺生丸さまに置いて行かれはしないかと不安に思っとったろう。いまは、逆じゃ。いつのまにか先に行くおまえを、あのかたが追いかけとる。
 なあ、りんよ。率直すぎるのも、ときには悪じゃ。もっと狡くなれ。虚言でもかまわんのだ…………生まれ変わっても自分は自分のまま待っていると……たった一言でいい…………あのかたに、希望をのこしてさしあげてくれ。

 だが邪見は、肩をおとした。
…………いや、だめじゃ。殺生丸さまはそんなごまかしなんぞ、お望みにはならんだろう。なにもかも覚悟のうえで、人間の娘をそばに置いたのだ。ああ、我があるじは、なんと厳しく不器用な生き方をなさるのか……。


 しきりに、ひぐらしが鳴いている。もう陽が沈む刻限らしい。
「りんも馬鹿じゃが、殺生丸さまも大馬鹿者じゃ…………」
 邪見の目からおおきな雫が落ちて、膝にひとつ、染みをつくった。


< 終 >












2015年11月1日UP
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