【血汐】


 それは、再び殺生丸との旅をはじめたばかりの頃。食べ物をさがしに出て行ったりんが戻ってきたのは、出てから四半時もたっていなかった。戻ってくるなり、自分の荷物をあさっている。
「どうした」
「さされちゃったの。蜂、かな……ちょっと大きかった」
 りんの荷物のなかには、毒消しの膏薬が入っている。だがいくらか気が動転しているのか、目的のものはなかなか見つからない。
 殺生丸がふわりと立ちあがった。
「見せろ」
 りんの腕を殺生丸がつかんだ。「あっ」という声とともに、立ちあがる恰好になる。痛いとも言わずに我慢していたようだが、りんの睫毛には涙がにじんでいた。
「じっとしていろ」
「殺生丸さま……」
 少女の華奢な腕が、濃い桃色に腫れはじめている。殺生丸は腕に口をつけると、刺し跡をつよく吸った。

 かすかな毒の苦味と血の匂いが、殺生丸の口中にひろがってゆく。
(たったこれだけか)
 虫の毒などというものは、彼にはまったく無意味だった。毒とすらいえない。殺生丸はそれを無造作に吐き出した。
 りんはあたふたしている。虫の毒のためだけではない。毒を吸った殺生丸の唇に狼狽しているのだった。いつもは見ているだけの、秀麗な唇。その唇に、肌をきつく吸われる感触。わずかにふれた、濡れた舌先。
 りんは頬を真っ赤にしている。
「あのあの、もう大丈夫です」
 大きな蜂にさされたことよりも、今やこちらのほうが一大事らしい。

 殺生丸はりんと、りんの腕をまじろぎもせず見つめていた。
(これがりんの血か……)
 初めて舌に感じたそれは、おそろしいほどあまく、よい香りがした。頭の芯が、花に酔うように痺れてくる。躰に、寄せくる波のような衝動がはしった。
 殺生丸は女をしらないわけではない。血がさわぐ夜、すり寄ってきた女妖に数刻ばかり相手をさせる。事が済めば、それらにはひとかけらの未練もなかった。ゆきずりの、むなしい泡沫だ。
 しかしこの娘だけはどう扱えばいいのか、わからない。女妖らとおなじように扱おうものなら、どうなるだろう。虫けらのわずかな毒でさえ、身に障るというのに。

「りん」
 りんの腕をつかんだ力がつよくなった。
「りん」
「なあに?」
 見あげる瞳に、怪訝そうな光がうかんでいる。それに気がついた殺生丸は、ようやく手を離した。りんはきょとんとしている。
「りん。…………成長したのだな」
 なんとか彼なりに言いあらわすと、りんは無邪気に答えた。
「ふふふ。蜂にさされたからって、あたし泣いたりしないよ」
「………………」
 しばしの沈黙がおちた。殺生丸の言わんとするところは、正しく伝わっていないらしい。
(そういうことではないが……)

 自分の言葉がたりないことはさておいて、彼はりんの純真さにすこし拍子ぬけしていた。しかし言いかえれば、肩の力がぬけたということでもある。それを証拠に、殺生丸の唇はかすかに微笑さえしていた。
「……では膏薬とやらをつけておくがいい」
「はい! ありがとう、殺生丸さま」

 りんはさっそく膏薬の再捜索をはじめた。さして多くはない持ち物だ、それはすぐに見つかったらしい。しかしりんは、別のことで声をあげた。
「たいへん!」
「今度はなんだ」
 りんは殺生丸をふりあおいだ。
「毒が残っているといけないから、殺生丸さまもよく口をすすいでおいてね!」
「必要ない。おまえは用心することだ」
 殺生丸は踵をかえすと、ひとりごとのように呟いた。
「この……わたしの毒にも」
 その声には、己への嘲笑がわずかに含まれている。ちょうどりんの血にまじっていた蜂の毒のように、苦く。


 殺生丸はその場から離れると、適当な樹のそばに腰をおろした。りんを見ると、もう膏薬をつけたのだろう、腕へ器用に布をまきつけているところだった。
 彼は何者の毒にも、いや我が身の毒にもりんを殺させる気はなかった。りんは陽の光のような瞳で、彼の傍にいなくてはならないのだ。しかしそれは、敵からりんを守ることほど容易ではないように今の殺生丸には思われるのだった。
――血の味がする…………。

 こちらを見て、りんが笑顔を咲かせている。
 あたらしい舘に着くまでの旅は、殺生丸にとって長い道のりになりそうだった。


< 終 >












2015年9月1日UP
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