【風を想う】


「ねえ、殺生丸さま……」
 初夏の風が、りんの髪を優しく梳いてゆく。一年で、もっとも爽やかな季節だ。陽を透かしたり反射する木々と草は、生きた翠の玻璃のよう。屋敷の外へと殺生丸と連れ立ってそぞろ歩きに出たりんは、その光溢れる光景と心の芯まで洗うような風に、しばし時間を忘れ佇んでいた。こうして風に吹かれているのが気持ちいい。けれどこの頃、りんには想い出さずにはおれない面影がある。今はいない、風を纏ったあのひと……。

「ねえ、殺生丸さま……」
 聞こえただろうかと振り返れば、殺生丸は真っ直ぐにりんを見ていた。
(そういえば初めて会った時、殺生丸さまは真っ赤な瞳でりんを刺すように見たっけ。今はなんて静かな目をされてるんだろう、凪いだ湖みたい)
「あのね」
 言いかけて、口をつぐんだ。言わなくてもいい事かもしれない。りんらしくもなく躊躇した。地面に小さな草が、これまた小さな花をつけているのが目に入った。
(もうこの花をじっと見ていようか、殺生丸さまに訊くのは止して)

 短い沈黙を破ったのは、殺生丸のほうだった。
「どうした」
 低く、静かな声だ。これまでこの声にどれほど安心感を与えられた事だろう。そして殺生丸の声を聞くと鼓動が高まるようになったのは、いつからだろう。胸のあたりが苦しくなる。息が止まりそうになる。
(殺生丸さまのお声は、低くて静かで…、そして、あまい……)

「りん」
 名を呼ばれて、りんは顔を上げた。殺生丸の髪を、柔らかく風がかきあげている。新緑の季節の透明な光が、その髪を銀糸のように光らせていた。
(綺麗……)
「あのね、殺生丸さま」
 止まりがちになるりんの言葉を、殺生丸は眼差しで促した。
「あのね、殺生丸さまって、あの人のこと好きだったの?」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


(言ってしまった)
 りんは、とんでもない大事を口にしたような気がして、足元がぐらぐらと揺れているような感覚を覚えた。
 小さな頃は、何とも思っていなかった。「あのひとは殺生丸さまがすきなんだ」と、ただそう感じていた。ちっとも変な気持ちになる事なんてなかったのだ。ところが昔は気にならなかったこんな事が、小さな棘のように時折りんの胸を刺す。
(殺生丸さまはどう思っていたんだろう)
(慈悲とか哀れみとか、それだけ?)
(あの人の目は、殺生丸さまの目は、もっと違う色をしていなかった?)
(もし殺生丸さまがあの人を好きなのなら、りんはもう……)
「あの…、風の……」
 りんが言葉をつぐ。きっと、自分の声は情けなくかすれているだろう。殺生丸は一瞬考えるふうをした。

「気にしていたのか」
 静謐さに満ちた声が、りんの上にふわりと降って来た。その静けさに、思わず殺生丸の顔を見直す。
「あの……」
「自由になりたかったのだ……」
 りんは、そう呟いた殺生丸の目を見て自分が愚かな事を尋ねたと悟った。
 そうだ。
 あのひとは思うままに生きようと、自由になろうと、もがいていたのだ。自由に憧れ焦がれ続けた、風。ようやく最期にして自由を得た、風。今になって本当に気付いた、そのひとの胸の内の切なさ。
「可哀想だったね……」
「そうだな」

 とても綺麗なひとだった。今、あのひとはこの空を自由に舞っているだろうか。きっと春になれば桜の花びらをまとい、夏には渓谷を涼やかに吹き抜け、秋には祭囃子の音を運び、冬は吹雪の衣装で野山や里を吹き巡るのだろう。
(声を掛けたら、りんにも気付いてくれるかな……)
 目の前を梢を揺らしながら吹きぬけていった風に、そんな事を思った。

「妬いていたのか」
 殺生丸の声に、りんは我に返り赤面した。
「ごめんなさい、あたし……、」
 おかしな事を訊く、そう呟きながら殺生丸はりんを見た。生涯かけて、りんにしか見せなかった眼差し。りんしか知らない、殺生丸の眼差し。だがそんな無言の想いにまだ気付けずにいるりんであった。それでも構わぬ、と殺生丸は思う。今は。まだ今は……。
「そろそろ戻らねば、邪見の奴が昼餉だと騒いでうるさいぞ」
「は、はい!」

 並んで屋敷に戻る二人の距離は、昔に比すれば僅かでしかない。殺生丸がそばにいる、それが何だか不思議な気がした。だって子供の頃は、後をついて行くのに精一杯だったから。
(少しずつ殺生丸さまに近づいている気がする。でも、ほんとうはこれからもずっと近づけないのかもしれない、そんな気もする。……あのひとは殺生丸さまこと、好きだったんだと今でも思う。自分の気持ちが伝わらなくても、殺生丸さまが遠くても、それでもほんとうに好きだったんだと思う。ね、そうだよね。りんも、せつなくてたまらないんだ)

 風に乗って、殺生丸の髪がさらさらとりんの頬を撫ぜた。そして、今度はりんの髪が風にふうわりと煽られて、殺生丸の鼻先に初夏の緑に染まったりんの匂いを伝えてきた。季節は、命謳歌する夏先駆けの頃。木々の匂いも、りんも、きらめいていた。
 二人の髪を優しく揺らした風は、またどこへ吹くものかひときわ高く舞い上がる。そして、まばゆい陽光の中を軽やかに、至極軽やかに消えていった。


< 終 >












2005.05.29〜2005.05.30ブログに掲載 2005.07.14サイト内に収納
< back > < サイトの入り口に戻る >