【眷属と月】
すこし昔、おれがいまよりもまだ仔犬だったころ。あのかたの名を口にするのは、なんと誇らしかったことだろう。かくも気高く強い妖怪を、ほかに知らない。おれは化け犬の一族では傍系に属するし、ぬきんでた妖力があるわけでもない。だから殺生丸さまという未来の長を、天に輝く月のように崇めていたんだ。
それがどうだ。此度人間の娘を娶って、西国の屋敷にはお戻りにならないという。人間? ありえない。あの殺生丸さまがそんなものをおそばに置くはずがない。
おれの気持ちは、どこへゆけばいいんだ。卑賤な者とつるんで、殺生丸さまはお変りになった。御母堂さまがお許しになったとしても、おれの気持ちにおさまりがつかない。
それ以来、おれは殺生丸さまをさがした。そしてようやく、天をかけている殺生丸さまに出くわしたんだ。
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風の強い夜だった。月の光が野を照らしている。殺生丸さまは銀色の箒星のように谷をぬけ、尾根をよこぎっていった。
おれは殺生丸さまの背後をねらった。こちらは風下。においには気づかれにくいはずだ。地を蹴って、ひと息に距離をちぢめる。
(たとえ爪の一閃でも!)
だが爪がとどくその直前、体が砕けたかと思うような衝撃をうけて、おれは地面に叩きつけられていた。
(斬られた!? いや……殴られたんだ!)
息を吐くことも、吸うこともできない。あのかたの名を叫ぼうとして、ようやく血だけが息の形になって吐きだされた。
「……きさま、ひさかたぶりに出てきたかと思えば、なんのまねだ」
殺生丸さまは、這いつくばったおれのまえに音もなく降り立った。その声は、体中が凍るように冷たい。おれが背後から狙っていたことなど、とうに気づいていたんだ。
殺される。おれは殺されるんだ。殺生丸さまは、こんなとき容赦なさらない。そういうかただ。
けれど死ぬまえに恨み言のひとつも言わなければ、無念すぎる。おれは残る力をふりしぼった。
「殺生丸さまは、愚かだ!」
ああ……こんな言葉を吐いて死ななかった者はいない。愚かなのは、どちらだろう。だがおれの弾劾は止まらなかった。
「人間の娘! 誇り高い殺生丸さまが、人間のせいで……!」
そこまで言って、涙があふれた。
「りんのことか」
殺生丸さまの声は、我が耳をうたがうほど穏やかだった。
「愚かと思うならば、好きにしろ」
「……なにっ」
「おまえはおまえの道をさがすがいい。わたしは、わたしの守るべきものをみつけた」
「…………!」
殺生丸さまは、もう踵をかえしていた。歩み去る姿の、なんと気高く端正なことだろう。おれは茫然とその光景を見ていた。そうすることしかできなかったんだ。
すると殺生丸さまの声が、研ぎ澄ました白刃のように身を貫いた。
「だが、ひとつだけ覚えておけ。りんに手をだせば、いま死ななかったことを後悔させてやる」
おれは声をふりしぼった。
「なぜそれほど……。どうして、あなたはお変りになったのです!」
そのときのことを、おれは死ぬまで忘れないだろう。殺生丸さまは振りかえると、ふしぎな顔をなさった。いままで、いちども見たことがない眼差しだった。
「りんを見れば、わかる」
その表情をどう言いあらわしたらいいか、おれは知らない。ただ、美しいと思った。天にある月よりも誇り高く、身に染みるようにやわらかだった。
「りん……さま…………」
「害意がないのならば、いつか来るとよい。妙なものを食わされるかもしれんが」
そう言って、殺生丸さまは夜空に消えた。これは夢なのか現なのか……おれはもうわけが分からなくなって、月明かりのなか、息をする骸のように横たわっていた。
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その妙なもの――人間の食い物――は旨いとも不味いとも言いがたかったが、あのとき死にもせず、殺生丸さまを斃すこともしなくてさいわいだったと、おれは思った。なんとか命をとりとめたのち、おれは殺生丸さまの舘に赴くことができたんだ。もっとも殺生丸さまに手傷を負わせるなど、できるはずもないのだが。
りんさまはおれが死にかけるような大けがをしたと聞いて、殺生丸さまをお諫めになったっけ。人間の分際で出過ぎたことを!、と言いたいところだが、ふしぎと腹は立たなかった。殺生丸さまがすこしもお怒りでなかったからだ。いや、むしろ叱られるのを楽しんでいるようにさえ思われた。
おれにはまだ妻も子もない。守るべきものというのも、正直なところよくわからない。だがもしそういうものができたとしたら、あのときのことを話してやるつもりだ。爺になってうるさがられても、孫や曾孫に昔語りをしてやるんだ。
そしてあれから、ずっと気になっていることもある。殺生丸さまは、「りんを見れば、わかる」とおっしゃった。たしかにりんさまは、思っていたのとは良い意味で違っていた。けれど、見るだけで殺生丸さまの変わられた理由がわかるものだろうか。おれが思うにあれは自慢…………というか、そう、「のろけ」ってやつなんじゃないのか。殺生丸さま本人に訊ねてみるのは……やめたほうがいいだろうな。
――またいつか、舘をたずねてみよう。りんさまといるときの、あのやさしい月の光のような表情を、おれはまた見てみたいんだ。
< 終 >
2015年7月1日UP
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