【雨のかご】


 ちいさな雫がひとつ、りんの足下におちた。ひとつ、またひとつ。墨色に翳った空から、たてつづけに雨粒の矢がおちてくる。りんの駆け足と、雨が地面をたたく音が交錯した。

 さいわいにも古いお堂の軒下に駆けこんだが、雨はやみそうにない。りんは板敷に腰をおろすと、墨染めの空をながめた。
 食べ物を求めて人里におりたはいいが、この雨ではしばらく足止めだろう。降りそうだとは思ったが、これほど雲が速いとは予想外だった。


 とおい空が低く、不機嫌に震えている。重い車を牽くような雷鳴がいくどか届いたかと思うと、とつぜんあたりを真っ白に染めた。堂の軒下もりんの体も、地響きのような音にゆさぶられる。
(どうしよう……)
 ちいさな堂は雨に降り籠められて、あたりは湖のようだ。
(はやく戻りたいのになあ)
 稲妻と雷鳴が交互に野をたたく。りんは雨の飛沫が白絹のように地をおおうのを、ぼんやりと眺めていた。むかし、ずうっとむかしの子供のころ、ついてゆくので精いっぱいだった妖怪の一行。それがいま、自分の帰りを待ってくれているのだ。



 やがて白くかすむ雨の野に、さらに白く凝集したなにかが現れた。白……いや、銀色だ。
「ここにいたか」
「殺生丸さま!」
 りんの声がはずむ。
「むかえにきてくれたの!?」
「ああ」
 その姿はこの雨脚だというのに、わずかな泥もついていない。降る雨さえも、この大妖怪をおそれているのだろうか。
「雨で匂いが消えていた。もう行くぞ」
 殺生丸は、ここに用はないとばかりに踵をかえす。
「はい。でもこれじゃあ、どっちにしろ雨宿りだね」
 それに思いおよばなかったのを告白するように、殺生丸はひとつ、まばたきをした。
「…………では、ここで待とう」
――待つ……これまでの人生には無縁だった行為。ちいさな人間の子供のために、覚えたこと。


 殺生丸は少女のとなりに腰をおろした。耳をろうする雨音がふたりをつつんでいる。
 りんは胸に手をあてた。
(うー。殺生丸さま、近いー)
 雨と雷鳴が大気をふるわせる以上に、鼓動がはやくなる。なにかで気をそらさないと、心の臓がこわれてしまいそうだ。
 りんはそうすれば鎮まるとでもいうように、膝のうえで握りこぶしをつくった。
 すると殺生丸は冷えたせいだと思ったのだろう、ながい袂をさしだしてくる。「体を拭け」ということらしい。りんは両手で「いけないよ」という身ぶりをしたが、さらに袂を押しつけられると、「ありがとう」というかたちに唇をうごかした。雨の音で聞こえていないのだと思っているらしい。

 髪や着物をぬぐうと、りんは白い袂に目をおとした。
「(よごれなくて、よかった)」
 ふしぎなことに、雨を吸っても染みすらできていない。
「(でも、ごめんね。雨に閉じこめられちゃった)」
 りんは目をふせる。……自分は、勝手だ。ほんとうは、(このままでもいいな)、とすこし思ってしまったのだ。
 殺生丸は唇をうごかした。
「雨に捕まるのも、そう悪くはない」
「え? なあに?」
 雨音がじゃまをして、りんには聞こえない。殺生丸はもう答えなかった。


 篠突く雨、雨、雨。躰のうちで騒ぐ、血潮の音。それ以外はなにも聞こえない。堂は雨の飛沫におおわれて、ここだけ別世界のようだ。
 りんは殺生丸を仰ぎ見て、唇をうごかした。
「(殺生丸さま、これありがとう)」
 かえす袂の、指と指がふれた。それがひどく熱いものだったかのように、ふたりの指先が隔たれる。殺生丸の金色の瞳が一瞬見ひらかれたが、視線はすぐに雨のあちら側に向けられてしまった。
「……殺生丸さま」
「なんだ」
「……ううん。なんでもないよ」

 大雨でよかった、とりんは思った。指がふれた瞬間、雷よりもおおきく胸の鼓動が響いた気がしたから。
 だがひどく胸がざわめいたのは、りんだけではない。――――殺生丸も同様だったのだ。



 とおい空が、かすかに明るい。
「阿吽と邪見さま、退屈してるかな」
 そうつぶやく声も、すでに普通に発せられることにりんは気づいた。
「雨、もうすぐ止みそうだね」
「ああ」
 重くかさなる濃灰の雲は、しだいに薄く、その色を淡くしてゆく。籠のようにふたりをつつむ雨の覆いも、やがて消えてしまうだろう。妖怪と人間の娘は、いつもの旅路にもどってゆくのだ。

 だが、りんはすこし名残惜しいような気もしていた。ふしぎと殺生丸の心がこの手に触れられるほど近く思えたからだ。
 見あげる秀麗な横顔は、いつもと変わらない。もしいまこちらを見てくれたら、そっと肩にもたれてみようか。そんなことを思うのだった。


< 終 >












2015年6月1日UP
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