【わらべのいさかい】
人里に妖怪があらわれる。……そう聞けば、だれしも人間を襲いに来たのだと思うだろう。ここに、そうではない妖怪がいる。
彼は人間の小娘に会いにくるのを、忘れなかった。それは足繁く、といってもいい。殺生丸という妖怪を知る者は、土産など持参して人里に通うという彼の姿を、すぐには想像できないでいるのだった。
「殺生丸さま!」
姿を見せると、りんは仔犬のように駆けてくる。でこぼこの小路もほそい畦道も、転ばずに駆けるのがふしぎなくらいだった。
「殺生丸さま、来てくれたんだね!」
「ああ」
殺生丸は瞳をうごかした。そしてそのまま、金の瞳をすえて黙っている。
「ん?」
りんは視線のさきをたどってみた。彼女の着物は土のよごれがついて、袖の縫い目がほころびているではないか。
「あっ、やぶれてる……!」
気がついていなかったらしく、りんは消沈したようすだ。
「揉めごとか」
「…………さっき、けんかしたの。村の子と」
「ほう」
それからさきは言いたくなさそうに口をつぐんでいたが、くやしそうに零した。
「その子、殺生丸さまは妖怪だからおまえなんてエサにされるんだ!って言ったの。骨までバリバリ食べられちゃうんだぞ!って」
「………………」
りんはぎゅっと手のひらを握った。
「殺生丸さまはバリバリなんて下品な食べかた、しないもん!」
それからどういうわけか取っ組みあいになってしまい、このありさまらしい。
殺生丸はりんの言葉を反芻していた。
(下品な喰らいかた、か…………)
エサにされるということより、バリバリなどという言い様がしゃくにさわったらしい。それも、取っ組みあって着物にほころびをつくるほどに。そのときのりんの気持ちを想像すると、ふしぎな苦笑がもれてしまう。自分自身のためにした喧嘩ではない、殺生丸の名誉を守るためにした諍いだ。愛らしい、とはこういうことだろうか。
「勇ましいな」
黒髪の頭に手をおいてやると、それが褒美とでもいうように満面の笑みを見せた。――もっとも殺生丸には、人間なんぞを喰らう趣味はないのだが。
りんの頭に手をおいたまま、殺生丸は訊いた。
「怖くはなかったか」
「うん! それにね、その子、ぶったりしてごめん、って。だからりんもごめんなさいって言ったの」
かるい擦り傷はこさえたが、ほとんど怪我はしていない。相手も本気ではなかったのだろう。少年――まだ少年とすらいえない童のにおいが、りんの着物に残っている。不快な臭い、とはいえない。そこにあるのは、りんに対する敵意ではなく……むしろその逆に思われる。
「あれっ、殺生丸さま。ふくれてるの?」
「なんだ、それは」
「お顔、ぶーっ、てなってたよ」
「そんな顔をした覚えはない」
よく見ているものだ。この少女は殺生丸のわずかな変化でさえ気づいてしまうらしい。だが村の童に少々妬心を起こした……ことまでは理解していないだろう。聡明だといってもまだ子供だ。もっとも殺生丸本人でさえ、いま生じたその感情がなんなのか、はっきりと把握していないのだ。
「へー、殺生丸さまもそんなお顔するんだね」
りんは感心したように見あげてくる。殺生丸は遠い山並みに目をやった。
「……そう思いたいのならば、思っておけ」
殺生丸はひょいとりんをかかえると、風景が見わたせるように向きなおらせた。
「今日はよく晴れたな」
「うん!」
それだけでもう殺生丸を詮索することは忘れたらしい。りんは村人に教わったお天気の予測のしかた、よい日和になるときの風の吹きかたなどを次々に語った。
「あたし、晴れた空のもこもこした雲がすき!」
「そうか」
彼方の空には、白い雲が浮かんでいる。それはりんがおしゃべりをする間に黄味をおびはじめ、もう夕刻が近づいていることを告げていた。りんはいつもふしぎに思っている。殺生丸と会っているときは、なぜすぐお別れの刻限になってしまうのかと。
「殺生丸さま……また会いに来てくれる?」
ああ、この瞳に抗える者があるだろうか。
「次に来るときは、あたらしい小袖を持ってこよう」
「へいきだよ、殺生丸さま。着物は楓さまに繕ってくださるようにお願いするから」
* * * * * * * * * *
つぎの約束。今度は、小袖を。いらぬと言ったが、あって困るものでもないだろう。ちいさな剛の者が、またほころびをつくって途方にくれてはいけない。よく晴れた空のような色あいのものを贈ろうか。いや、女の童がよろこびそうな、模様の華やかな品にしようか。
殺生丸は、夕刻まえの空をかけた。連なる山並みを越え、瞬く間にりんと人里が遠くなる。
――りん、また会いにゆく。くだらぬことで諍いなどしなくてよい。わたしには、なんでもないことなのだから。
もしそのかんばせを目にする者があれば、みな驚愕したことだろう。淡い琥珀色の光のなかで、殺生丸の口元がうるわしく微笑んでいるようにも見えたからだ。
< 終 >
2015年10月1日UP
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